君ありて世界<後編>

目を覚ましたゼロスは見慣れた天井を認めてから、今日はよく失態を犯す日だと冷静に思った。
ここはベッドの上で、外は真夜中を示す色と静けさで、フィリアの手料理を食べた記憶も皆無。
という事は…想像を巡らせる必要もないくらいに答えは単純だろう。
修復したはずの傷口も開いて悪化してしまっている。力が減少している証拠だ。
”失態” という単語だけでは表現するに生易しいかも知れない。

 「…っ」

ゼロスが痛みを黙殺しつつ半身を起こせば、真っ先にフィリアの姿が目に滑り込んできた。
少し低めの椅子に腰を下ろし、ベッドの端に腕と顔を預ける形で彼女は眠っていた。
腕の隙間から覗かせる顔には、微かに腫れた瞼と頬に残る涙の後が残っていて、ゼロスは哀感に目を細めた。
無意識に伸ばした手がフィリアの髪を撫で、彼女の覚醒を促がしてしまう。

 「お早う御座います、フィリアさん。まぁまだ夜ですけど」

フィリアはまさしく”飛び起きる”という表現そのままの勢いで跳ね起きた。

 「ゼロス、気が付いたんですね!?身体は平気ですか!?どうしてこんな怪我を!!回復呪文をかける訳にはいかないし…」

気が付きました、ちょっと平気です、任務で、意外に相手が手強かったんです、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。
まずは簡易的にフィリアの質問に答えたゼロスは謝罪を最後に付け加えてから、続けて口を開いた。

 「本当は食事が終わった後に話すつもりでした。が、気が付いたらこんな状態で情け無い限りです」
 「どうしてそんな無理をするんです!気持ちは嬉しいですが…怪我を押してまで来るなんて」
 「僕的には今日は絶対に来なければならなかったんですよ」
 「…治ってからでも良いじゃないですか!!」

ゼロスの言葉の意図が読めず、フィリアは目を瞬かせた。
一度窓の外に視線を外したゼロスが大きく肩を竦めて、やっかいな事にそこが問題でして…とワントーン下がった声で言う。
重みを含んだ彼の音にフィリアの中では緊張が走った。

 「実はこの傷の治療には約三百年程の日数を要します」

改めてフィリアの方を向いたゼロスが真摯な瞳で告げる。
フィリアは彼の横顔を見ていたので、急に当てられた視線にどきりとしてしまった。
ゼロスのライラックパープルの眼は自分が知る誰よりも強かだ。
それに彼の低い声が乗ってしまえば、たまに受け切れない時がある。
耳を塞ぎたくなるような甘ったるい愛を囁かれた時にも似たような感覚に陥った事があるが、似ているだけで、今回のものは酷く悲しい印象を与えるものだった。

 「回復に専念しなければなりません。話す事は愚か一切会う事も何も出来ない」

フィリアの手を取ったゼロスは甲に触れるだけのキスを落とす。

───フィリアさん、貴方を守る事も出来ない。

 「ゼ、ロス…?」
 「長びく可能性だって充分に考えられます。いつ戻れるかも正確には知れない。待たせるには少々長く、不確定要素も多いのが現状です」

刹那の沈黙。

 「だから貴方には……自由になる権利がある」
 「……!」
 「くすっ。変な顔になってますよ?フィリアさん」

ゼロスが場違いな台詞と共に笑った。
その笑顔は確かにフィリアが愛した表情に違いなかったが、どこか冷やりとしていて痛い。
彼が放った言葉の先を悟れない程、フィリアは鈍くは無いのだ。
寧ろ、感じるには聡い第六感はもっと前から ”予感” を告げていたのだから。

しかし、フィリアにはどうしても納得のいかない部分があった。

 「いつ戻れるのかも分からない男を待たせるのはフェアではないでしょう」
 「ゼロスはそれで……良いんですか。次に会った時、私がその…別の人と一緒だったりしても後悔しないんですね」
 「まさか」

フィリアの ”納得のいかない部分” の問い掛けに、ゼロスは殆ど吐息の様に返した。

 「我侭で不遜で五月蝿くて綺麗で可愛くて優しい。そんな貴方を手離すなんて面白い訳ないじゃないですか」

音の響きには焦燥の念がありありと絡んでいて、ゼロスは自分自身が煩わしかった。
そう、良い訳がなかった。
だがもし、四百年五百年と延びてしまった場合の事を考え、その際の伝達手段も無いとなれば選択肢はこれが最善だという結論に至った。
良い訳がない。これ程、何かを、誰かを執着の対象にした事はないのだ。
待てと言うのは容易い、がそれはこちらの都合を押し付けるだけで、寂しさに心を迷わせながら時を刻まなければならないフィリアの事を思うと、何かが違う。
こちらが責められるべき所も確かにあるだろう、だが彼女を無理矢理に縛るという行為は虚しいだけだ。
そんなくだらない種の負を好む趣味は残念ながら無い。

 「フィリアさん?」

ふわり、と風が舞った。
無言で抱き付いてきたフィリアの背にゼロスは反射的に腕を回す。
傷を気遣ってか、体重はあまり乗せられていないが確かに温もりは伝わってくる。
少し震えている彼女の身体に気が付いて、ゼロスはあやすように軽く背中を叩いた。

 「できるなら泣かないで頂きたい、笑顔の方がお似合いです」
 「な、泣いてなんかいません!」

それでこそフィリアさんです、とゼロスが一言添える。
しかしやはり何処か泣きそうな印象を湛えるフィリアの姿にゼロスは抱き締める力を強めた。

 「………ゼロスが私の為を想って言ってくれている事くらい分かります」

そっ…とゼロスの耳の傍にフィリアの声が降る。
ゼロスは苦笑していたが、フィリアには分かっていた。
彼は ”人の為” を名目に掲げて行動する事が嫌いだ、それは魔族所以の性質なのかも知れないが、決してそういう肝心な部分を口にはしない。
旅をしている時もそうだった。
互いに喧嘩をしながらも、互いに悪態をつきながらも、窮地とも言える場面で自分を励ましてくれのは他ならないゼロスだった。

顔を上げたフィリアが、ですが、と切り出す。

 「ですが。私はそんな自分に都合の良い時だけゼロスを好きだと思う身勝手ではありません」

ゼロスが驚いた視線を向ける。
そんな事を思いはしない、そう訴える様に。

 「我侭で不遜で五月蝿い。そんな面倒な私を貴方以上に上手く愛せる人がいるとも思えません」
 「フィリアさん…」

フィリアの頬に流れた涙をゼロスが指で拭った。

 「待っています、ゼロス。何百年でも何千年でも…私は待っていますから」

ゼロスはフィリアの言葉の最後を聞くその一瞬前に、再度、強く強く彼女を身体を抱き入れていた。
傷の事などもう構ってはいられない。
もし自分が実体を持つ生物であったなら、彼女と同じように感情を分泌させていただろうか。
そんな世迷言を考えさせる程、ゼロスは抑え切れない情動に揺れていた。
今までの往古に制御出来ない何かに揺さ振られた経験は記憶に存在しない。
この動きは恥ずべき行為なのだろう。
腹立たしく思うべきなのだ。

だが、それなのに。
こんなにも遣り切れないくらいに。
愛おしくて、愛しくて、堪らなかった。

 「ふふっ。ゼロス、少し痛いです」
 「…もう少しこのままで」








三百年と暫時が過ぎた頃、先刻よりも遥かに熱く痛い抱擁をフィリアは受ける事となる。
抱擁の質そのものは同じであったが、何よりも溢れる涙の理由が違っていた。

ゼロスがフィリアの名を呼ぶ、フィリアがゼロスの名を呼ぶ。

最愛の感情をその心に携えながら。




























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