君ありて世界<中編>

ガッシャーーーン!!

フィリアの手からティーカップが滑り落ち、壮大な音を立てた。
咄嗟に慌て調子で拾い上げるもその破片が指に刺さってしまい、彼女の動きを止めた。
フィリアは指先から溢れる小さな赤い粒を見、軽く口へ運ぶ。
舌に乗った鉄の味に顔を顰めるが、それで出血は簡単に止まった。
続きの作業に戻るフィリアであるが四つばかり欠片を回収した所で、再度、動きが止まってしまった。

カップを落とした時の突如襲った苛烈とも言える不安感を思い出したからだ。

洗い終わったカップを戸棚に並べようと持ち上げた時、身体が硬直して動かなくなった。
ゾワリと粟立つ感覚が気持ち悪く奇妙で、カップの割れる音がするまでのたった一寸、それは沈み込んだ様に長く重く心に留まった。
恐怖と類似する、不安。
あれは、何だったんだろう。
思案しても答えは当然ならが出てはくれず、フィリアの中で薄い畏怖だけが募っていく。

フィリアは割れてしまったガラスの破片全てを処理した後、目に入った時計の時刻に驚いた。
思った以上に時間は経過しており、もう幾分すればゼロスが夕食を食べに来てしまう。
既に下ごしらえは済んでいるものの、どうせ彼と共に食べるのであれば、いつもよりも手間と腕と込めた美味しい料理を提供したい。
手間と言っても壮大にする必要はない。
例えばそれは、栄養を考慮したり、彩を工夫してみたり、出す順番に迷ったり。
人間ではない彼に対してさしたる意味は無いのかも知れないが、こういう事を探って、想って、彼の為にと考える事自体がとても大切に思える。
シンプルでありきたり、だが…きっと、幸せという単語はこんな日常に秘められているのだろう。

 「エプロンは、っと」

フィリアが知る由も無かったが、それは最高のスパイスとなって実際にゼロスに伝わっていた。
成功作であれ失敗作であれ、彼がフィリアの料理を残した事は一度も無い。
ゼロスはいつも言う、単純明快に ”美味しいです” と。
彼が世辞を並べる男ではない事を知っているフィリアもまた単純明快にその言葉を嬉しいと思っていた。
急ぎ足でエプロンを着けたフィリアは台所に立った。
慣れた仕草で包丁を取り、野菜を手の中で躍らせる。
そして鼻歌を歌いながら鍋に火をかける頃には、もうすっかり、先程の不安は頭の隅に追いやられていたのだった。




湯気を立たせた色とりどりのメニューがフィリアの手によって机上に並べられた。
デザートは冷蔵庫へ入れて、ワイングラスも二人分置いて準備は万端だ。
現在は約束の時刻十五分前 ─── 何とか間に合った、とフィリアは一安心して椅子に座った。
日頃はふざけた態度ばかりのゼロスであるが意外と時間には正確な所があるので、もう幾分もすれば姿を現すだろう。

十分前、五分前、三分前、一分前、一分後、三分後、五分後、十分後。

約束の時間を十五分過ぎた所でフィリアは首を傾げた。
まだそれ程に待った内には入らないが、ゼロスがこれだけ遅れるのは珍しい。
どうしても急務から逃れられなかったという時でも、必ず何らかの形で連絡をしてきたはずなのに。

 「たまには、こんな日も…」

あるのかしら。
一人ごちたフィリアはほろ苦く笑った。
怒っている訳でも苛立っている訳でも全く無いのにも関わらず、笑みに苦味が含まれていたのは、胸の中でジワジワと先程の嫌な感覚が蘇ってきているからに他ならなかった。
カップを落とした時のあの心を掻き乱す様な不安が、何の脈絡も無く迫ってきていた。
得も知れぬ懸念が飽和する。
フィリアの巫女たる属性がそうさせるのか、彼女はこういった情動に非常に敏感で、落ち着いて考える余裕がある今ではかわす術を持ち合わせてはいない。
拒否をしても、勝手に向き合ってしまうのだ。
そんなつもりは無いのに、渦巻く不安と未だ姿を見せぬゼロスとが重なってしまい、額に汗が浮かんでいた。

 「フィ・リ・ア・さーん!」

汗を手の甲で拭った時、ドアの向こうからゼロスの声とノックが響いた。
フィリアは反射的に跳ね立ち上がり、ドアを勢い良く開いて彼を迎え入れる。

 「ゼロス、心配したんですよ…!良かった」
 「お待たせして本当に申し訳ありませんでした。折角の料理が冷めてしまいましたね」
 「何かあったんですか?」
 「それなりに面倒事がありまして……。いえ、言い訳は僕の好む所ではありませんので、この話は今は止めておきましょう」
 「そう、ですか」

ゼロスが来た事で安堵したフィリアであったが、何故か不安は消えなかった。
それどころか、彼の顔を見た瞬間から更にそれは強固になって離れない。
冷たい火にゆっくりと焼かれている、そんな痛みが伴われた。

 「温め直しますから、座っていて下さい」

フィリアは焦る心を隠しつつ、皿を手に取った。
動悸が激しくなっているような気がしていたが、それは敢えて無視をする。

 「今日はデザートはありますか〜?」
 「綺麗な苺を市場で見つけたので、ショートケーキを作りました」
 「では僕は、綺麗なドラゴンを近場で見つけたので、フィリアさんを頂くと」
 「分かりました。ゼロスはケーキ無しの方向で良いと言う事ですね。私は後でお隣さんと一緒に食べます」
 「冗談です。いや本気ですが…や、やっぱり冗談です」

ゼロスをにこやかに睨んだフィリアは踵を返して台所へ足を運んだ。
皿をオーブンに入れてから、胸にそっと手を添える。
いつも通りの会話とゼロスを前に、どうしてこんなにも心がざわつくのであろうか───




テーブルとの往復を何度か繰り返して、最後の一皿を温めるフィリア。
ジュレ状であるこのスープは再加熱し難く、少し時間を取られてしまっていた。
と。
フィリアの耳が不意に、ガタンッ、という不自然な音を拾う。
ゼロスが座っているはずの部屋から発せられたその音を確かめる為に、フィリアは後ろを振り返った。

 「ゼロスー。何ですか今の音ー!」

言い終わると、フィリアは静かに目を張った。
ゼロスの姿が見えない ─── いや、視界をやや下に向ければ ───

 「ゼロス!?」

そこには椅子から崩れ落ちる様にして倒れているゼロスの姿があった。
フィリアは走り寄り、出来るだけ丁寧に彼の身を抱き起こした。
ゼロスの身体には大きな傷が現出しており、フィリアはざわついていただけだった内心が悲鳴を上げるのを聞く。
そして、確信してしまった。

これだったのだ。

予感を統べる、不安の正体は。























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