君ありて世界<前編>

ああ、しくじった。
蒼穹の空の下、ゼロスは胸裏で嘆いていた。
彼は今、非常に困っている。
笑顔は張り付かせたまま、オーラも飄々としたまま、それでも確かに困っていた。
ゼロスには今日、どうしてもやらなければらない事が二つある。

一つは、我が主である獣王ゼラス=メタリオムより命じられた任務を果たす事。
二つは、我が想い人であるフィリア=ウル=コプトとの夜の食事。

その前者は二秒前に完遂したばかりで、一秒前に任務完了の報告も終えたばかりだ。
我が主より授かった要務を終えてしまえば、自分の脳を締める勢力図は面白い程にがらりと変わる。
色は黒から金へ。本気は安逸へ。静寂は弾む喧騒へ。
驚く程に魔族として矛盾するこの図は、己が楽しいと思う事を最優先させた賜物と言える。
誠に遺憾ではあったが、その内容全てに対極の存在であるはずの竜の女性が絡んでいた。
そう、楽しいのなら仕方が無い。
重ね重ね遺憾な事に、この後の彼女との食事を心待ちにしていたのは違いない事実。

 「ぐ…」

ゼロスは片膝を折り、自分の意志とは無関係な形で地面にしゃがみ込む。
荒い呼吸と、咽るような咳き込みが空気に溶けて消えた。
もう一度、ああ、しくじったと思い、腹部に添えていた左手をほんの少しズラして見れば、そこには堂々たる傷跡が鎮座していた。
魔族故に血液などは流れ出ないものの ─── 腹部から下腹部にかけて、ごっそりと身体部分がエグり取られている。
致命傷と言うにはまだ浅いが、容易に癒える程の深さでも無いだろうか。
失った力の回復に専念する為に、しばらくは身を潜めなければならないと推測される。
時間にして約二万六千二百八十時間、年数にして約三百年程。
既に千年以上を過ごしてきている身にとっては、さしたる年月でも無いのであるが ───

 「困りましたねぇ…」

ゼロスはどうにか表面上だけで身体を修復して、立ち上がった。
足取りは鈍く、眩暈に似た浮遊感を覚えるが、動くだけであるのなら支障はないと見える。
この後の食事の約束は何とか守る事が出来そうだ。
だが、その後は。
その後には、どうしても抗えない空白の数百年が生まれてしまう事となる。
そう考えてしまえば決して短くないであろう数百年。
ゼロスは嫌でも頭を過るフィリアの姿に苦笑しながら言った。
面白くない、本当に面白くない…けれど、ただ待たせるのには少し長すぎる歳月だ、と。




ゼロスがゼラスより与えられた任務は中々に特異なケースのものであった。
その内容は、異界より紛れこんだと思われるアンノウン魔族の掌握、もしくは完全排除。
意図的な侵入か、それとも誤ってこちらの世界に干渉してしまったのかは不明との報告であるが、こちらの忠告を再三無視した為、その始末が必要となった。
始めは下位魔族が派遣されたが、結果は惨敗に終わる。
それが理由で相手の力も可成りであると評価されてしまった為、こちら側も力ある者を送り込む事となった。
そこからは話が早い。
力ある者で自由に動ける者。そう、ゼラス傘下である獣神官ゼロスに白羽の矢が立ったのだ。
これ以上の痛手は恥であると、ゼラスもその要請を承認。
主の命とあればゼロスも不満等は一切なく、その任務に素早く取り掛かった。

空間を渡り、直ぐさま目標と対峙したゼロスは人の目では捕らえれないであろう速さで背後を取った。
振り上げた錫杖でアンノウンに攻撃を仕掛ける。
裂光が散り、一度は見慣れない防御呪文で防がれるも、ゼロスは隙を見計らい第二撃を瞬時に下ろした。
風が舞い、耳障りな音がしたかと思うと、アンノウンの身体が無残にも四散する。
ゼロスも確かな手応えを感じており、任務はあっさりと終了するかの様に見えた。

 「任務完了と言いたい所ですが…」

ゼロスは集中力を研ぎ澄まし、鋭い魔力を虚空に放った。
黒の線は空気を焦がしながら、不可視の相手へと吸い込まれ、空中で弾ける。
煙が肌を撫でる中で、ゼロスは得体の知れない力の収束を感じ取る。

 「これでは…下位魔族が太刀打ち出来ない訳ですね」

何も無い空中の狭間から、この世の存在では無いであろう姿態が姿を表した。
新たなアンノウン。
さっき滅ぼしたものとは歴然の力の差を感じる、それはもう比べるのも馬鹿らしい程に。
だが、ゼロスが怯む事は寸分も無かった。
相手も決して弱くはないのであろう、唯こちら側の力が強過ぎただけだ。
ゼロスは魔力の出力をを上げ ─── しかし、ここで不足の事態が生じた。
目の前にいるアンノウンと同質の気配が背後よりみるみる出現し始めたのだ。
面倒な事に、それは更なる力を備えている者達らしい。
ゼロスは口元を軽く緩ませ、スリルを楽しむかの様にして一度笑った。
身体を宙に溶かし、ゼロスはアンノウンをアストラルサイドへと誘う。

戦いの場は物質世界からアストラルサイドへ。
それは、この事態が簡単には収束しない事を意味していた。
魔族の本体同士の戦い、即ち、少なからず両者とも本気であるという事。

そして、何度目かの攻防戦の際、防御を破られたゼロスは相手の一撃が自分の腹を薙ぐ瞬間を見た。
だがそれは同時にアンノウンに大きな隙を生む事となり、それを見逃すゼロスでは無い。
圧縮された力を放ち、相手の全てを闇に飲み込んだ。
相手は断末魔を上げる間も許されぬまま、黒に溶けて消える。
ゼロスは滅した今のアンノウンが最後の一体であると気配で確認、すぐさま主に任務終了を告げた。

任務完了。
再び物質世界に身を置いたゼロスが蒼穹の空の下、胸裏で嘆く。

ああ、しくじった。























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