境界、相知る



呆気に取られているフィリアの表情はやがて硬さを帯びて固まり始めた。
身を屈めたゼロスは己の顔をそれへと近付ける。
このように壁に追い詰められている状況においても、恐怖ではなく純粋な驚きのみを持っている彼女の空気は二重の意味で甘い。
きっと、砂糖やハチミツといった脳内で描ける限りの甘露を示し合わせたとしても、今の彼女には敵わないに違いなかった。

 「ゼロス…?」

ゼロスは恬(てん)として、しかし、今の自分がいかに煩雑な位置にいるのかを把握する。
こういう場面でこそ力任せに暴れてくれて構わない。何故、上目遣いのみで留まっているのかと辟易しながら斜めへ走らせた視線は、意外な景色を捕らえて止まった。
そして、数拍。
ただの束の間程度の刻であるが、ゼロスは思わず沸き起こる微笑いを何度も噛み押さえた。
狭い視界の先には予期せぬ答えが待っていた。
それはもう愉快な光景だった。
得心したゼロスは思考に没する。

そうか。暴れたくても暴れられないのだ。
自分の方が彼女の片手を、ただ力任せに壁へと縫いつけているのだから。

 「は、離しなさい」
 「さあ、どうしましょうかねえ…」
 「ふざけるのは!」
 「ふざけてないから、僕も考えているんですよ」

嘘でも冗談でもなかった。
軽快に受け応えしながらも、ゼロス自身、今の状況は不測の事態であったのだ。
旅に同行している途中、戯れに自分の分の宿もとってみたところ、そのゼロスの部屋に怒り心頭のフィリアが飛び込んできた。彼女はこの旅の貧困事情を特急に赤裸々に永遠に語り続け、遂には、夕食の時刻も突破、窓から煌々と覗いていた赤い夕日も闇に佇む青い月へと成長してしまった。
夜を気配で感じ取ったゼロスが、ツとその月に意識を遣った時、フィリアは「聞いているのか」と大きく前に出た。
攻められた距離。話半分に言葉を聞いていたゼロスは音だけに反応してフィリアを振り返ったが。
恐らくは、それがいけなかった。
二人の接近は予想よりも遙かであり、そしてそれは彼女にとっても思いがけないことだったのか、白いフィリアの頬には桜色(おうしょく)が散っていた。
絡んだ世界はまさに絶景のそれ。ゼロスは下がろうとするフィリアを咄嗟の速さで縛し、抵抗と共に自らの腕に閉じ込めた。
無意識 ─── 自分の堪え性の無さを密やかに嘆いたゼロスであるが、単一でただ透明に「綺麗」だと思わせたのは、彼女の失態以外の何ものでもないと笑う。
今のこの不幸くらいは受けて然るべきだろう、と。

ゼロスはフィリアと出会ってから今に至るまで、例えどのような形でも彼女に言い伝えた事は無いが、それでもゆっくりと、確実に、二人の仲が熱を携えているのは避けようのない事実だった。
動いている、進んでいる。気を振らずとも見えてしまう刹那がある。
フィリアも感じていない筈がないのだ。
双方が真に嫌悪のみを抱えているのなら、存在さえも無にして過ごせば良いだけのこと。
最低限の会話、目障りなだけの姿では、誰かが言う 「痴話喧嘩」 さえ成り立ちはないのだ。
気まずくもなく、息苦しくもなく、けれども、掴まず届けず触れず、そのくせ、他者では得られない限定じみたものが通り抜ける。

 「ねえ、フィリアさん」

拘束していたフィリアの腕を解放したゼロスは、そのまま彼女の衣服に手を掛けて止まった。
金糸の髪が月明かりに反射して揺れ光る。
ビクと強ばったフィリアを視線で制して、彼女の首筋に乗せるように低く続けた。

 「少し遊んで行きませんか」
 「……、」
 「ただの遊び、ですよ。幸いにも今日ここは僕の部屋です」

ゼロスが芝居仕草で言い見せる。
そして緩りとした動きでフィリアの肌を数ミリ捕らえた。
フィリアの口唇が悩ましげに上がる。吐息も、融けるようにして漏れていた。
更に動きを深めようとしたゼロス。
しかし、その直後。

 「ゼロス」

今までにない鋭さを持ったフィリアの声がゼロスの行動を差し押さえる。
肢体は硬くのままであっても、動揺はしていないらしかった。
形の良い唇が迷わず続きを語る。

 「駄目ですよ、ゼロス。分かっています、分かっていますけど」

何がそんなに嬉しいのか、何がそんなに悲しいのか。
喜怒哀楽も複雑も綯い交ぜにしたような笑みを覗かせたフィリアが強い声音で言う。

 「私は貴方が嫌いで、貴方は私が嫌い ─── そうでしょう?」

そうでなければいけないでしょう?
フィリアの細い指が伸び、ゼロスの肩を押した。
力で勝る筈のゼロスであるが、その一歩分の距離を必定と心得て離れた。
お誂え向きに、二人の間には窓から差し込んだ月光が境界線を引いてくれている。
ゼロスはその線を決して越えることなく、あくまで真上に立ちながらフィリアの問いに答えた。

 「そうですね。僕としても戻れなくなるのは本意ではありません。……貴女の判断は賢明だったと言えるでしょう。例えそれが ”遊び” だったとしても」
 「……もう既に戻れないから、嫌いだと言っているんです」

フィリアもまた月光の上に立ちゼロスの隣に並んだ。
やはり線を越えることはしない。

 「ああ…確かに。これはまた互いに面倒なことです。まあ僕もフィリアさんのことは嫌いですけど」
 「安心して下さい。私の方が嫌いですから」
 「へえ」

足元と互いを見ながらゼロスとフィリアは嫌いを繰り返した。
戻りたくても戻れないと知る。
越えられるであろうのに、越えられないと知る。
好きでいて、嫌い。


二人は今まさに 「境界」 に立っていた。


















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