生成せし奇跡  
     

その時その瞬間、フィリアの目に映ったゼロスは極めて隙だらけだった。
隙を通り越して間抜けな、と表現しても許されるだろうか。
常に余裕を絶やさず威風堂々としていた悪魔の影と、今の表情との不一致が謎を生み出している。
彼のこんな様子を初めて見たフィリアは失礼だと自分で思いながらも、必要以上に目を疑ってしまった。
二度と見れないのではないか。だって今までどれだけの強敵を前にしてもどれだけの深手を負っても、ゼロスのこんな姿を暴く事なんて何にだって誰にだって不可能だった。

 「っ!」

霞の遠くで聞こえた彼の声に衝動の感。
後に続いた二の句は拾えなかったものの名前を呼ばれた事だけは違いなさそうだ。
どうしてかといった理由は把捉の外であったが、ゼロスが呼び捨てで自分の名を呼んだ事も初めてで。
ほら今も。お得意の笑顔を乗せたポーカーフェイスが成り立っていない。
フィリアはそんなゼロスに向けて言葉を発しようと試みるが、唇が上がろうとする間に、身体の底から逆流してきたと思われる何かの液体に阻まれた。
重い鉄の味に耐え切れなくなり吐き出してしまえば赤の拡がりがあって、白を基調とした服には余計に酷く映えていた。
激痛を認めたのも束の間。次にはゆっくりと、まるでコマ送りの様なテンポで景色が傾いていく。
大地に伏せようとする姿態を誰かが、恐らくゼロスが受け止めてくれたのだろうけれど、フィリアにそれを確認する事は出来なかった。
浅い視界、顔を上げる動作はおろか膝にも腕にも力が入らず、空気さえも掴めない。
漠然とした闇に意識を呼ばれてただ眠い、在るのはそれだけだった。
咳払いを一つすれば、生暖かい液体が再び込み上げてきて最早止まらない。
腹脇からも溢れるそれは地面に水溜りを作るかの如く零れ続ける。
激痛はいつしか灼熱に変わっていて、フィリアは自我を散らしながらも身に起こった異変について薄々と飲み込んでいく。

─── この事態は私が願い、成した事

そうだった、と淡白に溜飲が下がる。空いた胸には後悔などは微塵も無く、ある種の安堵さえ齎した。
しかしその安堵が闇に更なる侵攻を呼ぶ形となり、フィリアに迫る。
フィリアは昏睡に犯されまいと専一に抗うも、結果は僅か数秒の間を持たせただけに過ぎない。
だがその数秒間。フィリアは弛緩し切った腕に息の緒を掻き集める事に成功し、支え覗き込んでいるゼロスの頬に震える手を伸ばした。
『泣きそうな顔、しないで下さい』ホワイトアウトしつつある視力では彼の表情を汲む事なんて出来なかったのに、何故かフィリアはそう言いたかった。
『気持ち悪いですよ』と悪戯口調で続けたならばまたいつもの喧嘩に発展してしまうだろうか。
それも悪くない、遠慮なしの言い合いの最後には笑いあってまたお互いの事を好きになるだけだから。
フィリアは自分の名を重ねて呼ぶゼロスの声を鼓膜に残しながら目を閉じた。
涼しい顔をして無茶をするゼロス。そう、彼が無事だったのならばそれで良かったと思いながら。




ダークスターとの一戦から生まれた異界の者との無用な接点はこの世界に徒爾な傷を残していた。
魔王たる強大な力が刻んだ世界の曲折。それを絶好の引き金にして、こちらに異種魔族達の介入を許す契機となる。
ゼロスは異種魔族達を殲滅する任に就いた。上役達がその屈折を塞ぐまでの短時、嘗ての交戦の経験と実績から何かしらの命令が下ると見えていたが、それさえ待たずに自ら志願した。
待てなかった理由がある。絶対不可侵の理由がただ一つだけ。
この世界に干渉してきた異種魔族達は必ずと言って良い程、共通の行動を起こすのだ。
例外も無論あるだろうが、大半の者がとある一点の座標に向かって動く。
その座標を捕捉した時のゼロスは納得半分、痛恨半分であった。
目の前には通い慣れているフィリアの家。
ここには彼女の他にダークスターに色濃く関わり過ぎた者が同居している。欲しているのか滅ぼす気なのか、いずれにしても異種魔族達は彼の魔力に引かれてしまうのだろう。
ヴァルガーヴが狙われるとなれば、常に傍にいるフィリアも同じ事。
彼女の性格など熟知している。
相手が何だろうが、無謀だと知ろうがヴァルガーヴを守る為ならば望んで命を掛ける。
水際で堰き止める限界が見えたからこその今回の任務。一寸ばかりでも遅れる訳にはいかなかった。
ましてや、他の魔族に任せる事など。

 『一時的にでもヴァルガーヴを手放してみてはいかがですか?僕が責任を持ってお預かりしますよ』
 『それは…』
 『信用が置けないのであれば』
 『違います。今更ゼロスを疑うなんて可笑しな真似はしません。ただ、私だけが安全な場所にいるなんてそんなの納得出来ません』
 『お気持ちは有難いですが危険を伴います。ヴァルガーヴさんには不可視になるよう術を施すつもりですが完全には成り得ないのですから』
 『私だって旅が終わってから遊んでいた訳ではないんです。もう火竜王の巫女でも何者でもありませんが、己の鍛錬は日々欠かさず積んできました。共に戦えます』
 『止めても無駄だと?』
 『ゼロスだってそれが分かってて、急いでこの任務に就いてくれたんでしょう』
 『僕は一言も自分からなんて言ってませんけど』
 『それくらい分かります』

張り詰めた会話にあって、フィリアはその台詞の時だけは表情に丸みを帯びさせる。
その変化を確かに捕らえてしまったゼロスは長く深い溜息を落とす。

 『フィリアさんには敵いませんね』

ゼロスはフィリアの頭を数回撫ぜてから、その滑らかな髪を伝うようにして手を下ろしていく。
そして声に少しの険を刺しつつ言葉を続けた。

 『次の戦闘が終わる頃にはこの世界と異界との接点も修復されているはずです』

訝しげにどこか櫟ったいといった視線を上げたフィリアが二・三度瞬きをしてから真摯に口元を引き締めた。
今からゼロスが言わんとする事を見越しているのだろう。
彼女の腰辺りまで手を下げたゼロスはそんなフィリアを緩りと腕に抱いた。

 『危なかったら必ず逃げると誓って下さい。相手の数も力量も分からないのですから、自分の保身を一番に考える事です』
 『ゼロスだってそうですよ』
 『僕は多少の深手を負っても大丈夫です。しかし貴女を治せる者は場にいません』
 『……そうですね、ゼロスが怪我をしたら私が回復呪文をかけてあげる事も出来ますけど』
 『いや、それはちょっと勘弁して頂きたいですね』
 『嫌なら怪我をしない事ですね!』
 『…やっぱりフィリアさんには敵いません』
 『ふふっ。いつもは私がそっち側なんですよ』




ゼロスはその場にいた敵をどのようにして一掃したのか記憶に無かった。
場に集結した有象無象を滅ぼした後、一体だけ混じっていた大敵と対峙してはずだったが、やはり今までこちらの攻撃を掻い潜っていた実力者だけあって一片の間隙を見出す事も至難。
こちらの魔術が効き難い特性も手伝って、状況は不利に向きつつあった。
幾度となく探り合いが繰り返され、やがてギリギリの所で保っていた拮抗は崩れる。
ゼロスはたった一撃、上下左右から放たれた攻撃を避け切れず、仕方ないと手負いを覚悟した。
右半身くらいは軽く削られるだろう、いやそれくらいで済めば御の字だろうか。
しかし、やられるだけでは面白くない。
ゼロスは迫る攻撃に対して錫杖を向けた。接触し、肉を切らせている間に相手の骨を絶つ為に。
成功しても失敗しても戦闘不能に近しい態様に持っていかれる、下手をすれば ─── 終わる。
光線の輝きが肉薄し打ち当たろうとする刹那、ゼロスは強烈な違和感に遭遇した。
その身近とも感ずる違和感は突如介入してきた黄金、ゼロスの覚悟は彩りに阻まれた。
思わず見開いた目には鮮やかな赤の飛沫が舞う 、玲瓏として降ったそれは。

 「っ!」

咄嗟に空間移動を発動させ、戦場から引いたゼロス。
この程度の距離では直ぐに追い付かれるのは理解していたが、これ以上は動かす事も出来ない。
フィリアの身体はそれ程までに蹂躙されていた。
簡易に施した止血もほぼ無駄で流れ出す勢いを何も止められはしない。

 「僕を庇うなんて馬鹿な事を…!フィリア!!」

フィリアの手が頬に伸び、ゼロスはその手を取った。
痛みに全てを支配されているだろうに、拙く握り返してくるフィリアには細い笑み。
それを残してから彼女の瞳は陰りを宿す。
フィリアの名を何度も重ねるゼロスの声も虚しく、やがて彼女の意識は望まず破棄された。
まだ息はある、だがこのままでは尽きてしまう事など火を見るより明らか。

 「…少しだけ待っていて下さい」

後ろには先程交戦していた異種魔族の気配が迫っていた。
ゼロスはフィリアの身体を丁寧に離し、緩慢な動作で立ち上がる。
普段を遥かに凌駕した鋭利な笑顔は何を物語るのか。
フィリアが目を閉じた時、ゼロスは自分の内側で何かが”外れる”音を確かに聞いていた。

─── あまり僕を怒らせない方がいい

振り返って見た相手があまりに小さく映る、ゼロスはこんな敵に手古摺った己を恥じた。
そして一拍、錫杖を宙に走らせたゼロス。それだけで充分だった。
虚空に引かれた魔力の線が異種魔族を完膚なきまでに消滅させる。
耳障りな叫喚が響いたがゼロスは気にも止めずに、また砂埃さえ舞い切るのを見ずに背を向けた。
フィリアの元へ再び参じる間の、一縷の移動時間さえ惜しみながら集中力を高める。
傷が深奥に渡ってしまっているフィリアを今の状態のまま動かす事は剣呑で、どれだけ急ぎ医者の所へ運んでやりたくとも出来そうにない。
だが自分が唯一執着というものを宿す彼女を死神に奪わせる訳にもいかないのだ。
滅びを統べる魔族がたかが死を司る神程度に屈するなんて冗談にもならない。
それを選ぶくらいならば、誇りを捨て置く方がまだ笑える話に成り得るというもの。
ゼロスはフィリアの前に膝を付いた。
纏わせた魔力と集中を引き絞る。
やる事は決まっていた。

 「聖なる癒しのその御手よ 母なる大地その息吹」

ゼロスに逡巡は見られない。

 「我が前に横たわる 傷付き倒れしかの者に」

例えこの詠唱によって、術の発動によって精神領域を拉げられようとも。

 「我等総ての力もて 再び力を与えん事を」

彼女は繋ぎ止めてみせる。




フィリアは溢れ返して止まらない思い出を見ていた。
膨らんでは広がるそれが心地良い。流れる映像に思考を委ねて楽しむ。
その映像の大半にはゼロスが必ず登場するものだから、何百年も生きてきて思い出す事はそれしかないのだろうかとフィリアは苦笑してしまった。
飽きる程の口論から始まり、彼に助けられ時には助け、背を預け共に戦った事もあった。
微かに照れを含ませながら告白をくれたゼロスの表情は今も色褪せずに脳裏に描ける。
そうか、今となっては思い出というよりは想い出なのだ。
竜族と魔族。折角、長命な種族に生を受けたのだからまだもう少しだけ、本音を言うのならばもっともっと沢山、想い出を積み重ねていきたかった。
全てが反対にある者同士が判り合って愛し合うなんて、きっと歴史も逃げ出したくなる程の慮外。
天文学的な命運は、この時をもって攫われ離れるのだ。
穏やかに流れていた映像も終わる。音が途切れ、何も見得ない世界に切り替わって。
悔やんではいないのにどうしても悲しくて、フィリアは暗闇に身を沈めた。
その時だった。
不意にゼロスの声らしきものが聞こえる。
そんな筈はない。
だが疑える筈もない。もう何度も、呆れるくらいにこの声に心を置いて駆けてきた。
フィリアは前を向いて覚束無い足を起こす。
声風の導に沿いながら歩き続けて、進み続けて、走り続けて、いつしか開けた場所は。

 「…どうやら」
 「……」

フィリアは白い光に包まれていた。
その向こうにあるのは辛そうなゼロスの表情で、ボヤけている視力でもはっきりと分かる程であった。
無意識に動かそうとした身体に激しい痛みを覚え、そのお陰でフィリアは覚醒を認識する。
先程のあれは幻では無かった。本当に彼が助けてくれたのだという事も目覚めと同時に悟っていた。

 「意識は戻ったみたいですね…」

まずは頷こうとしてゼロスの方に小さく首を向けたフィリア。
ゼロスは腰を落として横になっている彼女に黙々と術を発動させている。
それを見たフィリアはどうしてか唐突に不安を感じた。
ゆるゆると解け始めた思考が何かしらの警鐘を鳴らしている。

 「動かないで下さい。この後にちゃんとした魔法医の所へ連れて行きますから」

彼の魔力によって創られている白光。この暖かい魔法の正体をフィリアは知っていた。
まさか。
嫌な予感が一瞬にして伝い、フィリアは痛みを引き摺りながらも身体を上げる。
咎めようとしたゼロスの発声は途切れながらであり擦れていて、それがフィリアの考えに確信を持たせた。

 「ゼロス!」

全身が叫ばんとする激痛の悲鳴をひたすらに無視して、ゼロスの手を止めたフィリア。

 「…無茶です!」
 「威力は半分以下ですが、全く唱えられないという訳ではないらしいですね」
 「魔族の貴方が回復呪文なんて…!」

フィリアには彼がどれだけの理屈を打ち払ったのかは想像も付かなかった。
元より強い魔力を持っているゼロスであるが、戦いの後で疲弊したはずの身体。
極限まで力を駆使して構成しても、黒の彼が白の発動に至るまでには超えなければならないものが多々あったはずである。
魔族が精霊の力を借りる。不可能な事ではないが前例など聞いた事がない。
ゼロスはそれを成功させたのだ。対価として魂を削りながら。

 「これくらいの代償は安いものです。今日みたいな集中力はもう出せないかも知れま、せんけど…」

前に浅く傾いたゼロスの体躯をフィリアがそっと支えた。
はにかむ仕草で申し訳ありません、と小さく言ったゼロスは偏った重心を立て直す。
フィリアに負担を掛けない程度の、限り無く微分な重みだけを残して。

 「フィリアさん、僕はまず貴女に礼を言わなければなりません」
 「…そんな。これでは寧ろ私の方が」
 「しかし怒ってもいるんですよ」
 「……でも、あれは!!」
 「分かっています。逆の立場なら僕も同じ事をしたでしょう。僕の戦い方にも問題がありました」

ゼロスはフィリアと視線を強く咬み合わせた。

 「でもそれでも二度と僕を庇ったりなどしないで下さい」

続けて紡がれるゼロスの言葉は重さを帯びながらも優しく厚くて、フィリアに異議を許さない。

 「どうやら僕には……」
 「?」
 「貴女がこんな目に合う事の方が、耐えられないみたいですから」

ここにきて急に場違いで明るいウインクをするゼロス。
フィリアは思わず頬を染めた。
そして、ゼロスの胸に手を添えて苦く微笑んだ。

 「…二人ともボロボロですね」
 「ええ」
 「ごめんない、ゼロス。………ありがとう」
 「それはこちらの台詞です」

柔らかく慎重にフィリアの手を、存在を握り締めたゼロス。
鼓動も伝わり、それが沁みて暖か過ぎたので、ゼロスはもう一度ダメージを負う覚悟で静粛に呟いた。
不慣れな詠唱、たどたどしくて稚拙な呼び掛けに応えてくれた白の者達に。
清廉潔白な感謝の意を。























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