「こんにちは、フィリアさん」
「な!目の前に突然現われないで下さい」
「そこは僕とフィリアさんの仲じゃないですか」
「どんな仲です」
「え」
「え?」
「敢えて言っても宜しいんですか?そうですね、それでは声を大にして僕とフィリアさんの───」
「ストッープ!私が悪かったですゼロス、今のは無し!無しでお願いします」
「僕は言いたかったんですけど…まぁそれは次の機会に取って置くとしましょうか」
「次も駄目です」
「あはは、それはどうでしょう。で、実は今日はお願いがあって来たんですよ」
ゼロスはごそごそと鞄をあさると分厚い古書をフィリアの前に差し出した。
フィリアはそれを疑問半分に受け取って眺めるが、かなりボロボロで色も煤けている為、何の書物であるかは見当もつかない。
過ぎ去った年月を物語る古紙特有の香りがフィリアの鼻腔を浅く通り抜ける。
「これは?」
「僕が前回の任務で手に入れた物なのですが、全くと言っていい程読めないんですよ」
「ゼロスでも読めないんですか」
「ええ。元々、僕は知識分野よりも戦闘分野ですしね。こういった物はフィリアさんの方が得意かと思い、解読をお願いしに来たんです」
フィリアとゼロスは椅子に腰を下ろすと、本を改めて見詰める。
それは独特のオーラを持ち合わせているらしく、フィリアは何処か惹かれる様な感覚を覚えた。
不気味である、が、興味が湧いてしまう。
ゼロスに読めない文献であるのなら、それは尚更。
フィリアは注意深く視線を這わせ、重々しい表層を持ち上げた。
部屋を古の空気が撫で渡り、微かに魔力の波動も拡がっていった。
罠的なものは仕掛けられていない様子、だが更に慎重を重ねて安全を確かめたフィリアはようやく文字に視線を這わせた。
「……」
「……」
沈黙に身を預けた二人。
する事が無く、フィリアの邪魔をする気も無いゼロスはただ黙って彼女を見ていた。
本を読む時でさえ背筋を伸ばしているのが彼女らしいと思うし、目の前で座るフィリアの姿はそこだけが色付いた様に鮮明で美しかった。
音の無い世界、けれど息の詰まらない空間。
それを楽しんでいる自身が可笑しくて、この時間を大切と感じる事が可笑しくて、もっと長く続けば良いと願う自身が可笑しくて、ゼロスは静かに微笑んだ。
「あまり見ないで下さい」
ゼロスの視線に気が付いたフィリアが顔を小さく上げる。
「嫌です」
「もうっ…解読出来なくても知りませんから。帰れなくなっても知りませんよ」
「それはそれで良いかも知れません」
ゼロスが台詞に含ませた意図を理解しているフィリアはくすぐったいといった表情を彼に置いて、本へ再び視線を戻した。
「判りそうですか?」
しばしの間を置いてから、ゼロスが浅く本を覗き込む。
本の中には図を崩した文字の様なものや記号と思われるものがビッシリと並んでいる。
魔法陣に連なるものもあり、理解出来そうな部分も垣間見えるが…
ゼロスに知れる箇所はこれくらいで、文字の羅列の意味や図が示すもの等、肝心な部分は未知の暗号のままであった。
「全ては無理ですけど…少しなら」
「充分ですよ」
「あ、このページならわりと読める?かも知れません」
フィリアがある一文を指した。
「…僕にはやはり難解ですね。試しに朗読して頂いても?」
ゼロスは知識と戦いながら努力を試みるが、結果は苦笑い。
頷いたフィリアが声に出して文章を読み進める。
紡がれる言葉は魔族間で使われるものでも竜族で使われる言語のどちらにも当てはまらない。
ましてや人間が使用しているものでも無かった。
例え少しでもそれが読めるフィリアにゼロスが感心していた、その時。
「フィリアさん!」
突如、フィリアの身体が発光に包まれる。
しまった、とゼロスが舌打ちをして立ち上がった。
「これはまさか呪文の……詠唱!?」
読み進めていたフィリアが理解した時には遅かった。
呪文は発動し、目の前にいたゼロスへと光が降り注ぐ。
聞き慣れない言語に油断していたが為、臨戦態勢に入る事が遅れてしまったゼロスは真正面から光を受け止める形になる。
「ゼロス!?」
光が止むのを見たフィリアは慌ててゼロスの元へ駆け寄った。
フィリアの顔は一瞬で青ざめている。
自身が読み上げた事で発動する種の魔法ならば、それは白に属している可能性が高い。
円滑に詠唱ワードを紡げていた訳では無いのだから威力は微々たるものと予測はされる…、されるのだが、それでもやはりゼロスの身が案じられた。
「大丈夫ですか、ゼロス!」
「いやぁ〜驚きました」
怪我も無く健在しているゼロスの姿にフィリアは酷く安堵した。
彼は普通にその場で立っており、パッと見では外傷等は見受けられ無い。
「どこか痛くないですか」
「無事みたいです。特に身体に変化も………おや?」
ゼロスが大袈裟に首を捻った。
不可抗力とは言えども、正体不明の魔法を浴びせてしまったフィリアは気が気でない。
「うーん」
「もし怪我してるのなら、隠さないでちゃんと言って下さい」
「いえ。それよりもある意味やっかいかも知れません」
ゼロスは何処か楽しげに続きを言う。
「魔法が封じられてしまったみたいです。精神世界にも干渉出来ないですね、残念ながら」
「一大事じゃないですか!私の不注意で…本当にごめんなさい」
「読めと頼んだのは僕なので、フィリアさんが責を感じる必要はありません。問題は…」
人差し指を立てたゼロスが万遍の笑みを携える。
「今日は帰れない、という事ですね」
「そんなレベルの話じゃないでしょう!」
「これは重大ですよ。魔法が使えないイコール帰れないイコール泊めて頂くしかない、ですからね」
「泊めるのに異存はありません、ですがもっと慌てなさいっ!!」
フィリアは急ぎ本の元へ戻ると再び謎めいた文章と格闘を始めた。
罪悪感も相まって、何か解呪の法でも載ってやしないかと血眼になって探し始めたが、途中でゼロスの妨害が入る。
背後から手が伸びてきたと思ったら、強制的に本を閉じられてしまったのだ。
「どうせなら、この状況を楽しみましょうよ」
「楽しむって…」
フィリアは呆れ声で応えた。
魔族がそのほとんどの能力を封じられているのにも関わらず、本当に楽しそうにしている。
物質世界に存在出来ているのだから、本当に”全て”を封じられている訳では無さそうであるが、危険な状態には違いないだろうに。
「こんな感じで」
不意に後ろから掛かるゼロスの声が近くなった事に驚いたフィリアが反射的にそちらを向いた。
刹那を挟む間も無くフィリアの顎を捕らえたゼロス。
「…っン」
フィリアが認める前に、唇に柔らかいものが重ねられた。
距離はまさに零で、反論を一切許さない強く優しいキスだった。
それがやたらと甘くて、フィリアの喉奥からも同じく甘ったるい声が上がる。
「え…!」
次いで、ようやく唇を開放された思ったフィリアの視界が回転した。
「今日はお泊まり、ですからね」
何があったのか、判断に遅れたフィリア。
しかし、浮いた景色と咄嗟に掴まってしまったゼロスの首元が状況を示す。
「だからって…!お、降ろしなさい!」
彼がゆっくりと向かう先は、言うまでもなく寝室である。
ゼロスの両腕で抱え上げられたフィリアは強かに抵抗を見せた。
彼を拒もうとは思わない、けれど今はそんな事をしている状況では無いはずだ、と。
「暴れると落っことしちゃいますよ〜」
「ああ、もう…!ゼロス、身体の事をもっと心配して下さい。………もし」
語尾になるにつれて、か細くなっていくフィリアの声にゼロスは歩みを止める。
「もし…本当に戻らなかったらどうするんです」
フィリアは完全に俯いてしまった。
ゼロスは開いた瞳でフィリアを一瞥すると、溜め息を押さえつつ微笑んだ。
責任感の強い彼女には少し酷だったかと思い、ゼロスは慰める様に口を開く。
「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。フィリアさん」
「?」
ゼロスは声のトーンを下げ、出来る限りの小さな声でフィリアに告げた。
「あれ、嘘ですから」
「うそ!?」
「あのよく判らない攻撃を受けてしまったのは本当ですが、実は全くの無害だったんです」
「じゃぁ、魔法は」
「普通に使えます。仮にあれが本当に封じ込めの呪文だったとしても…僕のキャパシティを本気で押さえ込もうと思ったらあんな半端な詠唱では到底無理でしょう」
「ど、どうしてそんな嘘を…!」
「ああでも示しておかないと、上司が早く解読して帰って来いって五月蝿いんです」
ゼロスはウインクを一つ下ろしてから、フィリアの頬に口付けた。
「中間管理職もたまにはサボリたいんですよ。愛おしい人の元で、ね」
「……」
フィリアは開いた口が塞がらなかった。
前半は完全に駄目魔族の台詞、そして後半は胸と息が詰まる程の満ちた言葉だ。
頬に散らされたキスが妙に暖かさを孕んでいた為、嘘を咎める隙を逃してしまった。
どの道、こんなその場しのぎの嘘で彼の上司を欺けるとは考えにくい。
いや、もう実はこの段階でバレてしまっているのかも知れない。
後で彼はきっとこっぴどく叱られる。
けれど、合わせた視線に秘め想いを感じたから、今回はこのまま駄目な魔族の温もりに大人しく捕まっていてあげようと思う。
「あの本はまだまだ不可解な点が多いです、解読には時間が掛かるでしょう。”ゼロスの魔力が元に戻る”までには日数を要します。解読している間は当然、ゼロスには私の代わりに店番をして貰うので、しばらくはここに缶詰です。良いですね?」
怒る気を完全に削がれたフィリアが赤らめた顔を背けて言った。
ゼロスが応える。
「了解です」