うさぎ

フィリアは浮かない表情で自室から夜空を眺めていた。
空一面に美々として輝いている星とは対に影を忍ばせたその瞳。
今日の一日は変わらず平和で、自身が手がけている店も稀にみる大繁盛。
寧ろ、笑みを浮かべていても良い日だったはずであるが、フィリアの口から漏れる音は本日何度目かも忘れてしまう程の溜め息の連続である。
理由は単純にして明快…ここ最近の日々が平和過ぎたからに他ならない。
突然後ろから抱き締めてフィリアを驚かしたり、他愛無い話で口論する相手の訪問がパッタリと止んでいた。
淡々とした毎日、トラブル無縁の連日…。
フィリアは頭を軽く振った ─ いや、何に不平を思う事があるのだろうかと考える。
次にフィリアは目を細める ─ しかし、確実に何かが欠けている様な足りない様な苦しい様な。

 「生ゴミ…」

胸の中に薄く降り積もりつつある靄を払うつもりで囁いた彼の仮称はそれを助長させただけである。
フィリアはこの感情の正体を知り得ていた。
が、それを簡単に認めてしまうのは何処かプライドが邪魔をして、決して口にはしない。
そして気が付けばまた一つ、深い吐息が零れ落ちているのであった。


夜はますます更け、さすがにそろそろ眠ろうかと立ち上がったフィリア。
就寝前に紅茶でも飲もうと思い、ティーポットに手を向ける。
カップを一人分並べ紅茶を注いでいると、ふと、テーブルの隅に置かれた見慣れない絵本が目に留まる。
首を傾げようとした所でそれは昼のお客様の忘れ物だったという事を思い出した。
いずれ取りにくるかも知れないという可能性から、しばし預かっておこうと彼女は考えていた。
それにフィリアはその本の表紙が気に入っていた。
桃色の兎が表紙のその絵本は単純に可愛くて、何か惹き付けるものがある。
もし持ち主が現れないのであれば、こっそり貰ってしまおうかと冗談半分に思う。
フィリアは紅茶を一啜りし、絵本を手に取り表紙を開いた。
ゆったりとしたスピードでページを捲っていく。
すると、ある一説が目に留まった。
フィリアの顔には微苦笑が滲む。

─ 兎は寂しいと死んでしまう

この言葉が迷信の類である事くらいは知っていた。
だが、ある意味では真理を指しているのではないだろうかとフィリアは考える。
動物に限らずどの生物にも当てはまるもので、それが明確な原因として分かり難いだけ。
ここまで思考を巡らした所でフィリアは大袈裟かしら、と小さく笑った。
次のページに進もうとした指が紙に触れた時、

 「何かしら?」

突如、部屋の空気が変わった様な感覚を覚えたフィリアは思わず手を止める。
数秒後には心拍数がほんの少し上昇していた。
この部屋の色を一瞬にして支配した犯人がフィリアの直ぐ後ろで口を開く。

 「こんな時間まで起きているなんて、いけない子ですね〜フィリアさん」
 「ゼロ、」

フィリアの返答を待つ事なく、ゼロスは後面から彼女の動きを全てを自身の腕の中に閉じ込める。
ゼロス顔には万遍の笑み。
申し訳程度の抵抗をしているフィリアも何処か楽しそうである。

 「お久しぶりです」
 「普通は挨拶の方から先にしませんか…」
 「身体が勝手に」

ここでまたフィリアの嘆息が吐き出される。
しかし、先刻とは打って変っての感情の乗ったそれにフィリアは改めて理解した。
ささやかなプライドも彼が来た途端、こんなにも優しく崩壊を見る。

私は、寂しくて寂しくて仕方なかった。

 「ゼロス、今まで何をしていたんです」
 「少し多忙でして…でも僕も会いたかったんですよ?」

ゼロスの腕に力が更に入った事をフィリアは身に感じ、耳元では『貴方が毎日、僕の為に夜更かししているのも知っていますしね』と呟かれ、彼女の体温は嫌でも上がってしまう。

 「もうっ!」
 「いつも通りの可愛いフィリアさんで何よりです。…おや、その手の物は?」

フィリアの手にある本を視線で指しながら、ゼロスは尋ねる。

 「今日、お客様が忘れていった物です」

なる程、とゼロスが頷いた。
フィリアは絵本に目を配ると、逡巡した間を置く様に顔を伏せてしまう。
ゼロスは瞬時それに気が付き、語尾に疑問符をつけながら彼女の名を呼んだ。
応えは無い。

 「フィリアさん?どうしたんです?」

二度目の問いかけを合図にフィリアはゼロスの腕を緩やかに解くと、彼と正面に向き合った。
真面目でいて、それでいて迷っているかの様な揺れる瞳と対峙したゼロスは浅く首を傾げた。

 「ゼロス、あの…」

フィリアは一度、言葉を飲み込んだ。
こんな事を言っても良いのだろうか、困らせるだけでは無いか、呆れるのでは無いか。
彼にも彼の生活時間があって当然。
面倒事があればなにかと駆り出される彼だから、忙しい日常が普通なのに。

 「顔を上げて下さい、フィリアさん」

フィリアの視界は急に狭まった。
ゼロスの胸が目の前にあって、また抱き締められたのだと理解した。
これ以上は無いであろう温もりに負けて、ポツリとフィリアは言葉を紡いだ。

 「寂しかったです…ゼロス」

フィリアが言ってしまった後悔をするよりも早く、ゼロスは行動を起こした。
フィリアの顎に手を添え、やや強引にそして包み込む様に、唇を重ねる。
心底で欠けていたピースが完全に埋まっていくかの如く、酷く満たされた気持ちが溢れていた。
彼以外でこんな気持ちを引き出せる者など、他にいないのであろう。

 「僕も寂しかったですよ」

名残惜しそうに唇を離した後、ゼロスが言った。
我侭を言ってゴメンナサイと返すフィリアにゼロスが微笑む。
続けてフィリアが言う。

 「でも忙しいのなら本当に構わないんです。これはただの自分勝手な発言だって分かっています」
 「フィリアさん…。僕がどうしても来れない時は恐らくこれからも何度かあります」
 「はい」
 「ですが、離れている時もこうして近くに居る時も、僕はあなたを想っていますよ」
 「…!」
 「僕が貴方を想っているなんて”今更”ですが。もし宜しければ、寂しい時間は改めてこの事を思い出して下さい」



フィリアの手から本が落ちた。

これからのフィリアの時間から ”寂しさ” は消え、”彼を待つ楽しみ” という時間が新しく出来る事となる。

























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