某月某日。
大学卒業を間近に控えた小春日和の朝。
結果と約束と宣言を胸に。
休日の自室にて。







その日の竹井久は長く鏡を眺めていた。
髪の乱れを入念にチェックし、服装だって日頃の倍以上の時間を掛けて整える。
鏡に映る自分の顔が少し堅い気もするけれど、それは無理に否定せず、真正面から受け止めるよう努めた。
緊張することも、肩に力が入ることも、全てが想定の範囲内。
今日の竹井は端からこの状態を大前提としていた為、その不安定さに呑まれることはない。

 「準備完了かな」

キュ、と竹井が髪を結び終える。
ここ数年で伸ばしてきた髪は、今はもう中学時代を彷彿とさせる長さに届いていた。
気楽さもあって、再びセミロング以上に伸ばす気は無かったのであるが、現在一緒に住んでいる恋人が、何かの昔話の最中に 「格好良かったです」 なんて頬を染めて言ったので、竹井の中で事情が変わった。
今も素敵ですけど、という台詞もしっかり聞こえてはいたのだが、なるほどそれならば伸ばしてみようかという気になった。
低い位置で緩く束ねるスタイルは、二人共の何気ないお気に入りだ。

 「さて…」

身なりの最終確認を済ませた竹井は、後背にある机の中から、一枚の紙と一つの小箱を取り出した。
紙は三つ折り跡が残るA4サイズ、小箱は角に丸みを帯びて手平に乗る大きさにある。

 「女同士じゃ、やっぱり正式にとはいかないんでしょうけど」

竹井が見詰める。
引き出しの奥の奥に仕舞われていた僅か数グラムの物達、それは竹井にとって、覚悟や誓いといった不可視の存在を具現した未来のようなものだった。
ただ、その構成を司るのは決して綺麗な想いだけにあらず、もしかしたら不安も含まれていたのかも知れないし、ひょっとしたら怖さもあるのかも知れなかった。
実際の重量よりもズシリした圧力を感じるのはそのせいなのだろう。

 「形くらいは、ね」

竹井が文字列夥しい紙の方に目を通して首肯する。
次いで、小箱の蓋を開いて同じ動作を行った。
そのまま箱の中央に意識を遣る。
中央にて鎮静と収まる銀の輪をひしと瞳に映した竹井は、この希少の輝きを渡さんとする相手に思考を馳せた。

共に麻雀の腕を見込まれ、同じ東京の大学へと進学してから四年間、付き合い始めから計算するのなら五年間、彼女とはもう随分と多くの季節を過ごしてきた。
二人の東京進学が決まった際には、特に相談することもなく、特に考え悩むこともなく、本当に自然な流れで 「一緒に住む」 という形になっていた。
あまりに抵抗がなくて大笑いした冬の空を今もよく覚えている。
きっと互いに、頭のどこかで思い描いたことがあったに違いない。
屋根を一つして暮らす日、朝一番に挨拶を交わす相手が毎日貴女になるような日を。
二人の生活がすんなりと馴染み、何の我慢も無かったのがその証拠。わざわざ合わさなければいけなかった時間は寸分たりともなかった。
時折、稀という頻度で喧嘩のようなものもしたのだけれど、その題材の大半は ”餅を焼く” といった内容であった為、最終的には、更に互いを好きになるだけだった。
二人共が全く違うベクトルで人当たりが良いというのも、なかなか多幸な困りものだ。

 「あの子…どんな顔するかしら」

竹井が目を細める。それなりの年月を重ねてきたんだと改めて思った。
それなりの年月を重ねて、心も身体も愛し合って、きちんと喧嘩もしてきた集大成 ───
それが竹井を手中の結晶へと導いた。
本音を言うと、もっと早くても良かったのかも知れない。
高校生最後の夏に訪れた彼女との出逢いと、混線していた過去とが結ばれてから、運命めいたものを感じていた相手だった。まさか、十代という早急の頃に巡り逢ってしまうとは思ってもみなかったのだけれど、友から絆に進み、絆から恋に変わり、恋は愛へと踏み込んだのなら、疑う余地もない。
しかし、短期で突き詰め、勢いに任せてしまうには話が大き過ぎる。
あちらが受け入れてくれればくれる程、大切になればなる程、共にそうであると承知する程、決断出来ずにここまできてしまった。
不利な状況ならばいくらでも跳ね返して見せるのに、妙な所で慎重になるのは、竹井が自覚している悪い癖だった。
だが、竹井にはそれを鑑みても尚、この歳月に意味があった思える。
所詮は違う人間同士だから、全部が分かるといった尊大なことは言えないが、それでも、自分以上に彼女を愛せる人はいなくて、自分を彼女以上に愛せる人はいないという事くらいは理解することが出来た。

─── さあ、行こうか。

竹井は心で己を奮起させると小箱の蓋を閉めた。
再度鏡を一瞥してから自室のドアをくぐる。
部屋の外に出てみると、廊下に漂うのは朝食の香り、そして、"その人" の空気。

 「……いつもの光景の筈なんだけど、柄にもなく照れるわね。プロポーズ前ともなると」

福路美穂子 ─── 最愛のその人はリビングで待っている。





竹井久がリビングに連なるドアを開けると、台所に立っていた福路美穂子が振り返った。

 「お早う、美穂子」
 「お早う御座います」

エプロンを外しながら応える福路は、丁度朝食の用意を終えたようであった。
竹井は椅子を引き、後ろ手に持ってきた手荷物を福路の死角位置に置く。
サラダとコーヒーを運ぶのを手伝ってから、自分も椅子に座り福路を待った。

 「今日も晴天ね。暖かいし」
 「ええ。洗濯物もよく乾きそうです」

ここで福路を待ちながら、何とも言えぬ深息を落とすのは竹井の日課の一つだった。
正しい根拠も無いままに今日も良い日だと思えるのだ。

 「久、今日は何処かに出掛けるんでしたっけ?」

やがて、トーストの湯気を挟んで福路が席についた。
竹井は首を横に振る。
即座にでも外出可能な姿をしているので、福路がそう取るのも無理はなかった。

 「ううん。ほら、今日は、」

竹井が爪先で、机上の新聞、特に日付部分を指した。
流れた竹井の視線につられて、福路もそちらを見遣る。

 「…そうでしたね」

得心がいった福路が口を開く。
今日は、竹井久にとっても福路美穂子にとっても大一番が掛けられた重要な日だった。

 「だから気合いを入れておこうと思って」

細かく言うとそれだけじゃないんだけど、そっちは後で話すわと竹井が続く。
福路は不思議に思いながらも重要事項の展開を急いだ。

 「結果は……もう?」

竹井が頷いた。

 「朝一の郵便で届いてた。愛想のない茶封筒は開封済み、結果も把握済み」

隠し置いていた手荷物から竹井は一枚の紙を取り出した。
彼女が言う ”結果” はこの折り畳まれているA4紙の中に確かに出ている。
文字列に埋まる、それは、合格か、不合格か。
福路の眼差しは二色を携えていた。

 「美穂子はどっちだと思う?」

おどけるように竹井が訊ねた。
下らない質問だと自分で思う。彼女がどう答えるのかをほぼ百パーセントに近しい水準で判じていながら訊いているのだから、冗語もいいところだった。
だが、竹井はそんな福路の心を堂々と欲して見せた。
この後に控える人生最大にして最初で最後の口上の為に、今一度の勇気を昂らせておきたかったのだ。
そして、福路には竹井の僅かな志願を見通すだけの意力がある。

 「久なら、必ず」

福路は自身が持ち合わせているだけの微笑みを竹井に渡した。

 「…ありがとう、美穂子」

しばしの沈黙の後、竹井も笑って言った。
竹井は広げた紙を福路に手交する。

 「…!」
 「合格 ─── 私は来月からプロとして麻雀を打つわ」

結果を読み聞いた福路に嬉の絶句が宿る。
その紙には、竹井久が数ヶ月前に受けていたプロ試験の合格を伝える旨が書かれていた。

 「おめでとう御座います!」
 「まだ実感はないけど…それでも嬉しいものね。私は大きな態度とったんだから受からなかったら格好付かないし」

高校と大学での功績を有し、実は複数の団体からスカウトの声も挙がっていた竹井だが、自らの意思で辞退し、敢えて遠回りとなる一般試験を選んでいた。竹井には身近に藤田靖子というプロ雀士がいた為、無条件に寄せられる贔屓目を警戒しての処決だった。誰に罪は無くとも、実力以外の部分で測られる事があってはいけないと。
竹井は忘れない。華々しく名も通れば契約金も破格となるスカウトの道を蹴り、倍率も高く艱難な受験の方を選ぶと言った時 ─── 福路は驚きもせず朗らかだった。
久らしい、と優しく言ってくれた。
清濁を共にしてくれる福路の存在は、紛う事なき竹井の強さとなった。
紙面に並ぶ「合格」の文字は、正真正銘の実力のみで勝ち取った「プロ」の称号である。
竹井久は、この春よりプロの雀士として卓につく。

 「大きな態度なら…私も……ですよね」
 「美穂子のは違うでしょ。目指す場所が違っただけで」

そして、プロへの誘いは福路美穂子にも掛かっていた。
中学・高校・大学と麻雀に秀でた学校に籍を置き、デジタル・オカルトの両面に対抗せしめる彼女の腕は貴重だと多くの団体が目をつけていた。事実、福路がこれまでに残してきた安定そのものの成績はどこまでもプロ向きにある。
しかし、福路は申し出の全てを懇切丁寧に断っていた。
プロに興味がないと言えば嘘になるが、これは麻雀に慈愛を注ぐ福路なりの英断だった。
自分はこの競技の楽しさをもっと多くの人に伝えたい。もし、自分に教えられることがあるのなら、喜んでそうしていきたい。
けれど、プロになってしまえば、個人と団体という ”立場” も付いてくる。教え伝えられる場面にあったとしても、”弁え”なければならない日がいつかやってくる可能性が示唆された。
ここで我慢が利くのか、利かないのかを思案すれば、福路の選択に迷いはなかった。
福路美穂子はプロにはならない。
勉学を重ねた福路は、麻雀における指導員の国家資格を取った。
福路は忘れない。プロにはならず、指導員になる道を選ぶと言った時 ─── 竹井は麗らかに賛成してくれた。
美穂子らしい、と明るく言ってくれた。
指針を共にしてくれる竹井の存在は、紛う事なき福路の支えとなった。
福路美穂子は、この春より未来の雀士を育てる指導員として卓につく。

 「私の方はただの見栄というか意地というか、まあそういうのだったから。正直、美穂子の応援と運がなかったらヤバかったかも」
 「いいえ。久は毎晩遅くまで研究してましたし、努力の賜物ですよ。それに雀士なら運だって力量の内です。本当に…おめでとう御座います」

今日の夕食は久の好きなものを沢山作ります、それは楽しみね、と二人は破顔する。
デザートもフルコースで、という竹井の寓意はそのままの意味で福路にとられてしまったが、放っておいても夜には発覚する、否、発覚させることなので、今は良しとした。

 「でね、美穂子に受け取って欲しい物があるの」
 「私にですか?」

竹井が咳払いを挟んでから、テーブルの上に手を伸ばす。
手平の下には拳大の何かが隠れているようであるが、福路にはそれ以上は見えない。

 「私達、もう直ぐ学生も終わりじゃない?」
 「? ええ。麻雀や勉強に忙しくて賑やかでしたね。久が隣にいてくれたことで、私も少しは友人と呼べる人が増えました」
 「私との暮らしは悪くなかった?」
 「毎日好きな人と暮らせているんですから、悪い訳がありません」
 「楽しかった?」
 「それは……久が一番分かってくれていると思います」
 「言ってくれるわね……」
 「……?」
 「 ─── なら」

福路が浅く戸惑う。
静かに幽玄と竹井から向けられた視線が、彼女の一呼吸を妨げた。

 「美穂子、」

竹井は福路への直情を声にして言い募る。

 「私とこれからもずっと一緒に居て欲しい」

竹井は手平で包んでいた小箱の蓋を持ち上げた。
それを遅れて捉えた福路の瞳が輝きに染まる。
箱の中にはシンプルな光りを放つ指輪が存在を主張していた。

 「待たせてしまったけれど私の進路も無事に決まった。 学生が終わるんだから、私と美穂子は、責任と自由を負えるだけの歳になってる」

箱から輪を取り外した竹井が福路の指を誘う。

 「一緒に暮らして見てはっきり分かったわ。私以上に美穂子を愛せる人はいないし、私を美穂子以上に愛せる人もいない」
 「あ、の…これはつまり……」
 「そう。だから美穂子も」

福路の左手薬指に指輪が通った。

 「生涯を、私に決めなさい」

私 ”だけ” に決めなさい。

 「……ひさ」

竹井は福路の手甲に口付ける。

 「私……っ」

次に竹井は泣き出しそうな福路を見咎めて苦笑して立ち上がった。

 「約束するわ、美穂子。必ず貴女を幸せに」

腕を広げれば、胸に飛び込んでくる幸一色。
暖かい溜め息が、滲んで果てた。

 「あーもう、泣かないの」
 「無理…です」
 「でも嬉し泣きってことなら良いかな」

竹井が福路の髪を梳く。
大事に何度か繰り返したしばらくの後、福路の頬に耳に寄せた。

 「ねえ…美穂子。一応、返事を聞かせて貰えるかしら?」
 「……」

竹井の服をギュと握り、感の滴を溢れ落とす福路が言う。

 「生涯、大好きです。ずっと一緒にいます」

小さくとも鮮やかな声を聞き入れた竹井が強く福路を抱き締めた。
「久こそ…私なんかで」 ─── そんな風に繋がれようとした台詞は自分の吐息で閉じ込める。




福路に乗せた僅かな体温が消える前にと、

 「たった今から、美穂子は私のお嫁さんね」

竹井が誰に言うでもなく宣言した。




竹井久と福路美穂子、二人はたった今から名実共に家族としての新たなスタートを切る。



















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