部室に来た時の荷物は、互いに鞄一つだけの筈だった。
その帰りに、わざとらしく 「あ」 と言い、「チカ、忘れ物をしたから先に帰ってくれ」 なんて。
「部室?待つわよ?」 という当たり前の流れに 「頼むから」 なんて。
しっかりと鞄を持った右手。
おかしいことには気付いていた。



獅子福音



獅子原爽が ”忘れ物” を取りに行ってから数十分が経過していた。
桧森誓子は何となく帰る気がしなくて、校門近くで爽を待っている。
部室方向を眺めてみても、まだまだ待ち人の影はなく、誓子は 「遅い」 と一人ごちて門にもたれ掛かった。
ふと斜めに視線を上げてみると雲の動きが早い。均一に塗り潰された灰色の空は、間もなく雨を降らせるのだろう。
誓子は自分の鞄の中で眠る折り畳み傘のことを考えた。
この小さな傘を誓子は常備しているが、爽は持たないタイプだった思う。
もう夏に近い季節とはいえ、日も落ちているのだから、早く帰ることが最善に違いない。

 「遅過ぎ……」

誓子は未だ棒立ちのままの膝に苦言をもらす。
時間は更に過ぎて、空もポツリポツリと限界を訴えた。
門横から伸びる木葉が誓子を守ってはいるが、この大粒相手では負けてしまうことも多いようであった。
徐々に誓子の肩が濡れていく。
コンクリートはもう薄色と濃色のマダラ模様だ。
生暖かい風も誓子の髪を遊び、湿った土や石の匂いが空気を満たし始める。

 「…………待つだけは待ったわよ」

ムゥという表情をした誓子は、地面を踏み込んで校舎を見る。
校舎に備え付けられている大時計を睨んで、もう一度、待つだけは待ったと胸を張る。
鞄の中の折り畳み傘が今か今かと出番を待っていた。

 「何か理由があるのならハッキリ言えば良いじゃない」

誓子の髪先から滴が落ちた。
待つだけは待った。誰が見ても充分な時間が過ぎていた。
しかし、誓子は帰ろうとはせず、そのまま ”校舎側の方” へ足を向ける。
雨が本格的に降り始めたことを機に、部室に向かう方の折り合いがついていた。
傘を持っていない爽を急かしに行くのが建前。
本音の方は、誓子だけが知っていれば良いことだった。




全くもう、と誓子は愚痴をこぼしながら部室への廊下を進む。
通い慣れた順路の中、誓子はパタパタと窓を鳴らす雨音を聞きながら、別れ際の爽を思い出していた。
─── 再生される数十分前。
何でもないという姿勢は欠かさず、それでいて、どこか繊細さを感じさせる顔立ちがあった。
部室に来た時の荷物は、互いに鞄一つだけの筈だった。その帰りに、わざとらしく 「あ」 と言い、「チカ、忘れ物をしたから先に帰ってくれ」 なんて。「部室?待つわよ?」 という当たり前の流れに 「頼むから」 なんて。
爽は 「頼む」 という言葉を選んだ割には有無を言わさない目を誓子に残す。それは長い一瞬だった。誓子は馬鹿ではないから、その爽を焼き付けざるを得ない。幽かな動きにも摩擦が生じるように思えて、誓子は動けなくなった。
誓子は直ぐに爽の様子がおかしいことに気付いていた。爽の右手にしっかりと握られている鞄を見ながら、「爽?」 ようやく声が出る。けれど、誓子の疑問は続かなかった。続けられなかった。爽が 「じゃあな」 と背を向ける。「気を付けて帰れよ」 と言って 「待っ……!!」 懐疑を示している誓子を振り返りもしなかった。早かった。
─── あの一連の流れが、例えば、からかうだとかドッキリだとかの演技として出来るのであれば、爽は相当のワルということになるが、しかし爽の器用さはそれらとは若干畑が違う。必要な嘘はつけるし、見事ついて魅せる質であるが、感情方面はとことん率直で、それと同じくらいに頭も回しているような人間である。自分のペースに巻き込むのが巧くても、面白半分に相手を煙に巻いたりは出来ない。
だからきっと、あの時の爽が混ぜた微かな緊張は、本当に構うなというサインだった。
代弁するのなら、事情がある・察してくれ・説明は見逃して欲しい、といったところか。
おまけに、”こんな悪手でもチカなら汲んでくれるだろう” というズルい先制も見え隠れしている。

 「ハア」

誓子は歩みを止めて、何よそれ、と思う。
声にするつもりはなかったが、「余計に帰れないわ」 という心が口をついていた。

 「………え」

─── と、再び歩こうとした誓子が、外の激しい光に意識を引かれた。
少し驚けば、灰色の空に、紫と赤の閃光。
次に、大地を揺さぶるような鋭く大きな音。

 「雷」

窓枠に指を添えて連続光を眺める誓子。
紫はまだしも、赤光の雷は珍しい。
誓子も何かの授業で習ったが、赤い光は、確か ”レッドスプライト” という超高層放電の一つだ。神秘的な赤(Red)と妖精(sprite)のような気紛れさを併せ持つことからその名を冠した。
科学が遅れていた時代には ”神の怒り” として恐れられていた歴史もあるそうだ。

 「……完全に」

窓から見える雨と景色とが、刹那的な赤で照らされていた。

 「本降り……ね?」

赤雷を目にすること数度。誓子が無意識に語尾を濁した。
雷鳴が疑似的に生み出す赤と黒のコントラスト。
今日のように下手に張り詰める爽を、誓子は昔のどこかで見たような気がしていた。
記憶の引き出しを曖昧に叩けば、幻を見るような感覚が浮き上がり、そしてそれは警戒心に似ている。
もう一度雷が鳴る頃には、確信めいた胸騒ぎが誓子の中に這っていた。
窓に添えられていた誓子の手がフラリと頭に移動する。
この記憶は、恐らく高校よりも更に前。爽と誓子は小・中学校を別に過ごしているから、あるとすれば幼少期 ───
─── そう、爽が行方不明となって、誓子が同じくその場にいた後輩・岩舘揺杏と泣きに泣いた後のことだ。
二日後に帰って来た爽は、赤い海水にズブ濡れで ─── 「助けてもらった」 とだけ言った。

 「まさか!!」

幼少期の爽と今の爽が重なった誓子は、いつの間にか走り出していた。
あの行方不明事件以降、爽が数年に一度口にする 「助けてもらった」 ─── それに本来伴うべき筈の 『主語』 を誓子はよく知らない。
が、事故や事件に巻き込まれる爽を助けている 『何か』 ・ 『存在』 であるということは、おおよそ理解出来ている。
昔の行方不明を切っ掛けに 『何か』 神格じみた者達が爽を好いたらしかった。
爽は表立ってそれらを語りはしないが、しかし、昔からあちこちに駆けつけては全てを解決に運ぶ爽を見続けた誓子にとって、その 『何か』 は、確実に 『在る』 者達だった。
誓子はここ数日の爽を振り返る。
アナログゲーム部を卒業して、きちんとした麻雀部を始めて数ヶ月。
真屋由暉子の正式加入後、地区大会突破と全国出場までを目指す今。
妙に、あまりに不思議に、牌回りが良い爽を誓子は何度か見たことがある。役満をアガる誇らしげな爽は脳裏に新しい。
恐らくは公式戦に向けての 『テスト』 を行なっていたのだ。
その時の爽ときたら、まるでTVや雑誌の世界でしか見ることが叶わない ”牌に愛された子” を彷彿とさせ、誓子・揺杏・本内成香が振り込むこと多数、喰い下がれる部員は、利き腕を解放した由暉子くらいなものだった。
並外れた強さが際立つ爽。
偶然にしては連続とタイミングが過ぎる時があったから、誓子も久しぶりに爽を助けている 『何か』 を意識した。
爽は牌には愛されていない筈だ。けれど、別の 『何か』 に愛されて、その者達も爽に応えているのだと。
誓子は何故かずっとその 『存在』 を好きにはなれないけれど、爽を助けているというのならそれなりで、でもやっぱり好きになるのは難しくて、それなりのなかなかだった。

 「助ける……それだけなら」

─── 部室前に立った誓子は、渦巻くモノを打ち消すように頭(かぶり)を振った。
そう、爽を助けてくれるのなら良い。日常でも麻雀でも。いくらでも助けてくれれば。
しかし、その者達は本当に爽を ”助けるだけ” なのだろうか。
「まるで神様みたいね」 とは教会娘である幼少誓子の言葉であったが、人間が十人十色であるように、神格者とて悪意を持つ者がいるのではないか。

 「爽!!」

ガラッ、と誓子が勢いよく部室扉を開ける。
肩で呼吸をする中、探すまでもなく爽の姿が見えた。
爽は雀卓に座ってうなだれていた。
返事の代わりに、う……という呻き声が返されて、誓子の心臓が嫌な音を立てる。

 「ちょっと!!凄い汗じゃない」
 「……チカ?」

爽が顔を上げて、あからさまに表情を曇らせた。
突っ伏している時間が長かったのか、焦点を合わすのに苦労しているようで、小さなまばたきを繰り返している。
駆け寄った誓子は爽の汗に触れる。
ハンカチを取り出して拭うと、遅れて、爽の身体が高熱を患わせていることに気付く。

 「頼む、って言ったじゃん……真剣なの分かってたくせに」
 「知らないわよ。…………これ普通の体調不良じゃないわよね。座ってないでこっちで横に───」
 「いや大丈夫だからさ。チカは帰れって」

肩をかそうとした誓子を爽が鈍い動作で打ち払った。爽は迷惑だという眼差しを向け、それから疲れたように首を振ると、また顔を伏せてしまう。「ちょっとしんどいだけだ」
ムッとする誓子であるが、さすがにこの状態の爽と喧嘩をする訳にはいかない。
今日一日、別れるまでの爽は至極平常であったから、やはり何か不自然なことが爽の中で起きているのだと誓子は結論づける。
新しい汗を流す爽を見て、誓子が再び顔を近付けた。

 「い!?…………ヤバ…っ!!」
 「え?」

ガタン、という大きな音がして、爽が逃げるように立ち上がった。
しかし身体が辛いのか、数歩程度の後ずさりで膝をついてしまう。

 「どうしたのよ?」

倒れた椅子を誓子が戻す。

 「あー、その。……チカ、あんま寄らないで欲しいんだけど」

ストップ、と爽が伸ばした腕で誓子の接近を阻む。
爽の視線は慌ただしく泳いでおり、顔も酷く気まずそうだ。
誓子は眉をひそめて問う。
身体の変調を見せたくなかったのは分かるが、こうして発覚した手前、寄るなとは何事だ。

 「どうしたのかくらいは言いなさいよ」
 「は、話せば長くなるから今日はやめとこう!!な?」
 「………………そう」
 「ち、チカ?」

ジリっと爽との距離を詰める誓子。

 「チカ待て!!」
 「爽の態度によるわ」

内心誓子は、徐々に活気が戻りつつある爽に安堵していた。
爽の身に何かが起こっていることに違いはなく、本人は辛い思いもしているのだろうが、部室扉を開けた時のような凍り心地はない。爽の様子から、その不調も致命的なそれではないと判断出来ていた。

 「熱があるんだって!!だからチカにうつるのはマズい!!」
 「…………」
 「ジャンケンで!!」
 「…………」
 「チカがジャンケンを無視!?今ならあっち向いてホイも付くぞ!!…………チカ!?分かった!!話す!!話すからッ。ちょっと待て!!」
 「フフン」

ジリジリと接近を続ける誓子に爽はお手上げだと白旗をあげた。

 「とりあえず、横になるか座るかしてからね」
 「はい……」

別に誓子とて、爽の複雑な部分までを暴くつもりはない。
特異絡みの可能性がある場合は尚更だ。本人にしか抱えられない是非もきっとある。そして誓子に解決出来ることなんて一つもありはしないのだ。
だが、一度突き放したくらいでは甘い。迷惑な風を装っても足りない。
爽が心の底から拒否を見せたのなら、誓子はここまで詰めはしなかった。
そこが誓子の引き際。爽だって知っている。だから今回は爽の負けだ。

 「全く……心配させるんだから」
 「? チカ何か言った?」
 「別に」

誓子は思っている。全てなんて誰だって話せないし、話せないことがある。それで良い。
爽に語り難いことがあるように、誓子には誓子の秘密がある。
爽が行方不明になった時、誓子と揺杏がどれだけ泣いたかなんて、本当の意味では爽には分からない。
家の方針で小・中学校を別にするしかなかった時、誓子がどれだけ───
有珠山高校で再会した時、誓子がどんなに───
少し悔しいとさえ思っているから、だから、心配くらいはしても罰は当たらないと思うのだ。全てに通じることは不可能でも、見得た部分があるのなら。

 「チカの言う通り、これは普通の体調不良じゃないんだ」

重い身体を引き摺りながら、爽が雀卓に座りなおした。

 「今日は帰り際に……」

誓子は相槌を打って対面に座る。
雀卓に再びうなだれた爽はたっぷりと時間を使ってから口を開いた。

 「ちょっかいをかけられたんだよ……悪意はないけど、何せ力が強い」
 「ちょっかい?」

相変わらず 『何に』 とは言わない爽。
誓子は構わずに続いた。

 「それ大丈夫なの?風邪じゃないにしても熱もあるみたいだし……雨も降ってるから濡れて帰るのはお薦めしないわ。私のを貸してあげるから」
 「チカが濡れるじゃん」
 「……送ってあげたいけど、駄目なのよね?近くに行かない方が良いみたいだし」
 「…………それは」

爽が視線だけを誓子に投げて逡巡をみせた。
誓子は顎を引いて控えめに爽を見詰める。
『何か』 からこれ程までに影響を受ける爽の姿は初めてだった。
昔から今まで、『何か』 がその身に在っても、爽本人に変調をきたす事はなかった。
やはり神格者の中にも変わり種がいて、爽が言うような ”ちょっかい” を掛けたのだろうか。

 「さっきチカも言ってたけど、この風邪じゃない熱が厄介なんだよ」

ふ、と深刻な様子になった爽は上半身を起こした。
また汗が流れる。誓子が距離を気遣いながら爽にハンカチを渡す。
言われてみれば、体調を崩しているにしては血色が良過ぎるようにも見える。

 「チカに寄るなって言ったのもソレのせいだから」
 「ただの高熱とは違うってこと?」
 「そうそれ大事」
 「どういう状態なの……」
 「言葉では難しいな。……でも、また似たようなことがあると迷惑掛けちゃうか……それはちょっと悪い……特にチカは」
 「私?」
 「あ今のは個人的な問題」
 「そう?」
 「…………どういう状態か知っておいてもらった方が良いんだろう、な」

爽が特大の溜息を吐いて、しばし。

 「チカこっちきて」
 「?? 良いの?さっきまであんなに嫌がってたじゃない」
 「良いから」
 「じゃあ行くけど」

座ったままの爽がチョイチョイと誓子を招いた。
爽の隣に立つ誓子。
少時の沈黙が生まれて、パタパタという雨の音だけが部室に聞こえていた。

 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………爽?」

迷い全開といった爽の表情が誓子の印象に残る。
沈黙に任すべきか、言葉を掛けるべきか。
誓子が考えていると、爽が力強く誓子の腕を掴んだ。

 「…………チカ」
 「え?え?」
 「あーもう!!」

立ち上がった爽がガシガシと頭をかいて言う。
サイドテールを解いて乱雑にネクタイを緩める姿は、もうどうにでもなれ、という風な動きだった。

 「爽……なんで髪とネクタイ……ちょっ!?」

すると、次の瞬間に容赦なく誓子の腕が引かれた。
「悪い」 と囁かれたと思ったら視界が半転する。少し背中を打ったような感覚があって、次に誓子が見たのは、ただならぬ雰囲気を纏った爽と、その背景にある天井の木目だ。
─── 見下ろされている?自分よりも十センチは背の低い筈の爽に??
混乱する誓子。
目端には、散らばった自分の髪と、顔脇に突かれた爽の腕が映っている。
動こうとしたが、足の間に爽の身体が入っていて上手く力が入らない。

 「……ってこと」
 「え??」

近い。息も触れる間合いの中で、グッ、とより一段近く、爽の顔が近付けられた。

 「こういう事したくなる状態ってこと」

低く情を帯びた声が誓子を射抜く。
爽の指が脇腹付近に乗る。
雀卓が軋み、誓子はようやく押し倒されていることを自覚した。

 「分かった? チカ」

はき違えていた ”熱” の意味を正しく捉えた誓子が、みるみる全身の温度を跳ね上げる。
これが近寄るなと言われた理由。
爽の状態。
なんということ。
なんという ”ちょっかい” を爽は掛けられているのか!!

 「さ、爽……」

首筋に這う爽の視線がくすぐったくて、誓子は身を捩らせる。

 「だからチカには先に帰って欲しかったんだよ」

爽がふてくされるようにして言った。それはいっそ切なさすらを帯びる仕草。誓子は息を呑む。
触れ合った影響か、爽の赤い瞳が虹彩を増しているように思えた。
誓子は逃げる素振りなんて見せていないのに、押し倒す力も強くなるばかりだ。
今こうしている間にも耐えているのだろうか。誓子の胸に爽の汗が落ちる。

 「その……相談してくれたら」

いや、こんなの相談しづらいにも程が ─── と誓子が思考を改めていると、

 「チカに怖がられるのは嫌だ」

爽が遮るように言った。
耳元で受けるしかなかった誓子はドキリと瞠目したが、しかし、宿っている熱とはチグハグな、叱られる寸前のような顔を爽がするから、誓子の瞠目は静穏に変わる。
「そっか……爽」 と誓子は小さな小さな声で呟いた。
怖がられるのは嫌だ。
誓子が心で繰り返すと、気が付けば誓子は、爽を抱き締めていた。

 「チカ……正直、チカの方から行動されるのは困る」

拷問だ、と爽は苦笑い。

 「…………」

身を硬くする爽の背を誓子は宥めるように二度叩く。
誓子と爽には数年の疎遠歴があるが、一緒にいた幼少期だけでも爽の特異性は際立っていた。
いや、活発な幼少期であったからこそ、今とは比較にならないくらいに目立ってしまったのかも知れない。
『何か』 の加護を受けた爽は、木から落ちようが溺れようが事故に遭おうが、必ず無傷で戻る。
複雑な事件なんかも、あっという間に解決に導いた。
爽は誰よりも誉められた。
誰かも爽を頼りにした。
きっと爽自身も、人を笑顔にする 『何か』 を誇りに思っていた。
─── けれど、それが何度か続くと、最初は爽を誉めちぎっていた大人達が、頼っていた友人達が、いつしか爽を不審な目で見るようになった。気味が悪いと避けるようになった。最後まで傍に残ったのは誓子と揺杏だけだった。
幸い、明るくやんちゃな爽に石を投げるような人間はおらず、爽本人だって寂しいだとかは見せなかったけれど、そんなグレーも黒も絡んだような体験が響いてない筈がない。

 「チカ」

誓子は無言で爽の背を離すと、しばらく俯いた。

 「どうした。怒ってる?」

周りが爽から離れていった時も、誓子はこんなに楽しい爽と遊ばないなんて馬鹿だと思っていたから、爽の特異性なんて二の次三の次だった。揺杏だってきっとそうだ。 『何か』 が在ったとして、それはあくまで獅子原爽の一部。 爽には悪用という発想すらない訳で、そんな爽をどうやって気味が悪いと、どうやって怖いと思えようか。
誓子は後悔していた。
─── そういえば伝えたことがなかった。もっと早く言っていれば良かった。
爽という人間を、『何か』 を、一度も隔てたことが無かったからこそ、誓子の認識は甘かった。
決して信頼がない訳じゃない。でなければ部室に来た時点で本気で追い返されていた。
が、爽からすれば、明日に誰かが離れないという保証もないのだろう。
『怖がられるのは嫌だ』 は、爽だけが持たざるを得ない可能性だった。
今の爽は力の一端が強く出てしまっている事もあって、万が一、億が一であろう誓子の反応を畏れたのだ。
こうして押し倒したのはある種の賭けで、信頼も不安も理性も力も、全てが綾なした結果に違いない。

 「いや、チカが怒るのも……無理はないか。……ごめん、な」
 「はあ……バカ爽」
 「痛っ!?」

誓子は改心の一撃ともいえるチョップを爽の頭に叩き込む。
額を曇らせる爽を見てクスリと一笑。続いて 「えい」 と爽の髪を引っ張った。
重なる爽の抗議を誓子は一切聞かずに流し続ける。

 「痛てて。チカ、いきなりどうし……」

油断した隙を見計らって、誓子は爽の両頬を手で包んだ。
瞳は強く合わせる。

 「怖くない」

怯むような素振りを見せた爽に、誓子はもう一度 「怖くないわ」 と言い添えた。
まだ惑うのなら、五月蝿いと言われるまで繰り返してやろうと考えていた。

 「チカ…………」

うん、と誓子が特別意味のない返事をすると、爽の瞳孔が小さくなった。
誓子は何が眩しいのだろうと思った。外の雨は止んでいなくて、雷も鳴りを潜めている。爽は一体何を見て目を細めているのだろうと。
しかし、この疑問はどうでもよかった。
爽が嬉しそうな顔をしたから、誓子は満足だった。

 「…………あれ?」
 「爽?」

爽がそろりと動いて雀卓から距離をとった。
グルリと肩を回して、『何か』 を確かめるように屈伸。手は開いたり握ったりを繰り返す。
他にも思い切り伸びをしたり、上体を捻ったり、深呼吸をしたり。

 「なおったみたいだ」
 「ああ…… ”ちょっかい” やっと終わったのね」

雀卓から降りた誓子がホッとしながら言う。

 「良かった……チカありがッ!?!?」
 「えっ 何 突然」

台詞途中で、爽がガバッと後ろを振り返った。
耳を押さえたかと思ったら、何とも悔しそうに頬を染めている。

 「最後、アレに何かされたの?」
 「されたというか…………」

ポツリと爽が告げる。

 「ごちそうさま、って言われた」
 「ご………………………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………私、先に帰るわね。爽は一人で帰ってね」
 「チカ!? 雨!!雨!!私は傘ないって!!」

折り畳み傘を取り出した誓子が早足で部室を後にする。
慌てて後を追って来た爽が隣に並んで、誓子はようやく帰ろうと思うことが出来た。




小さな傘が広げられる。二人が肩を並べる。
傘は誓子の物であったが、入れてもらっている側の爽が傘持ち役を担った。

 「ねえ、爽」
 「ん?」
 「今日みたいなこと、またあるのかも知れないのよね?皆にも最低限の説明くらいはしておいた方が良いんじゃないかしら。揺杏はまだしも……なるかやユキは知らない筈でしょ。もしもの時にビックリするわよ」
 「……あー、いや大丈夫と思う」
 「全然大丈夫じゃなかったじゃない」
 「いや、だから ─── 今回はチカだったからヤバかったというか……」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………ッ!?」

この時、爽が再び耳を押さえることとなったが、誓子はそれどころではなかったという。


















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