国内一敗



時計は遂に深夜を回り、未だ寝付けない小鍛治健夜が床についてから一時間が経過したことを告げていた。
もう何度目かも分からない寝返りを打つ。
目に慣れた暗闇の向こうでは福与恒子が寝ていた。
この家の主であり、ベッドの所有者である彼女は小鍛治に背を向けて寝息を立てている。
(眠れないな……)
小鍛治は半身を起き上がらせ、ボンヤリと宙を見る。
カーテンの隙間から見える夜空には星が輝き、溜息の小鍛治と反目するように雲一つない。
(いつものことだけど……)
そろりと立ち上がった小鍛治は、静かに伸びをして、 無意識のツモ切り動作を挟んだ。
(……試合が原因だよね)
小鍛治は少しだけ、今日のような夜が苦手だった。
眠りにくくなるのだ。今日のような試合直後の夜には。
一度研ぎ澄ました神経はそう簡単に沈静化してはくれず、しばし覚醒したままの状態が続く。
脳も活発なままで、体底には御し難い情熱が燻っていた。
こうなってしまうと、もう自然と目も冴えてしまい、夢への旅路は難しい。
小鍛治当人にも宥めるような術はなく、妙な高ぶりを抱えたままの長夜が完成するのである。

そして、今日の試合の特殊性も、また小鍛治を高めた要素だった。
予想だにしない本気の試合を求められた。本気を出してくれと頼まれていた。
今回のエキシビジョンマッチを計画した監督によると、新進気鋭の新人ばかりを集めた面子だそうで、その名こそまだ埋もれてはいるが、いずれは日本の未来を期待出来る選手達とのこと。
潜在能力を花開かせる為、かつての日本一である小鍛治の胸を借りたい、世界を体感させる為、貴女の全力を拝借したい、と。
快く承諾した小鍛治は卓に座った。
東一局、東二局、東三局、東四局 ………………
小鍛治は東場全域を様子見て、賽を回しながら頷く。
監督の評価は一貫して正しく、話の通り、目の前の選手達には次世代を感じさせてくれる光がある。
誇らかな闘牙も貪欲な攻守もまさにプロの完成度。
時折見える荒筋は伸び代として、これだけの選手が埋もれていると言うのだから日本の麻雀界は今も未来も明るさに満ちている。

 『ロン』

が、しかし。

 『ツモ』

─── まだ早い。

 『ロン』

小鍛治は牌を捌きながら、同時に、卓をも裁いた。
上に立つ者の礼儀として、皮肉なく容赦なく断じるのだ。

 『ロン』

小鍛治健夜に挑むにはまだ早過ぎた。まだまだ早過ぎていた。
上家は鬼才、下家は天資、対面は大器に違いなかったが、だが、小鍛治からすれば、ただそれだけのこと。相手側の監督から ”徹底的に” と受けて整えたコンディションでは、次元を違えてしまったのだ。
試合は全てトビ終了。小鍛治は三人全員をハコとして、漏れなく点棒を吐き出させた。
あらゆる強語を費やしても表現し得ないその圧倒さは、監督が試合終了を告げてくれていなければ、未来の芽を摘んでいた可能性も否めない。
(でもあの場で手加減なんて侮辱にしかならないから)
臨まれた全力に望み通りの全力。面子全員が青ざめていたようにも見えたが、このようなことも初めてではないし、同じプロとしての礼節は貫いたのだと、そう割り切れる。
(……気にはしてないけど)
けれども、小鍛治の溜息は深度を増し、回数ばかりを重ねていった。

 「こんな時に限ってこーこちゃんはあっさり寝ちゃうし……」

誰も小鍛治の手牌に干渉出来る者はいなかった。
一方的な試合では物足りない。
タイトル戦に臨む時のような熱線が、あのまま消化されずに置き去りにされている。
不完全燃焼だった。

 「…………」

眠れなければ夜は長い。
時間を持て余す小鍛治は、そっと福与のベッドの淵に腰掛けた。
福与はあまり寝相がよくない為、いつもどこかしらが乱れている。
小鍛治はそんな福与の布団を掛け直し、頬に掛かっていた髪を流してやる。

 「というか、こーこちゃんも悪い」

エキシビジョンマッチを観戦していた福与が 「試合お疲れ様」 と飲みに誘ってくれたことが今日の泊まりの切っ掛けとなったのだが、やはり断れば良かったと小鍛治は眉を下げる。
実際、試合直後の日は、今までも何度か誘いを断ることはしてきた。
単純に ”こういう状態” の自分を見られるのは好ましくない訳で、更に、恋人である福与が近くに居てしまうのならば、より一段と落ち着かなくなってしまう。 ─── そんなことは端から分かり切っていた。
本来ならば実家帰宅が正解だった夜。しかし、最近は試合が連続していたこともあって二人の時間は不足しがちだった。来週からは福与の仕事が忙しいとなれば、見栄を張っている余裕もなかったのだ。
そしてこんな時、普段ならば福与の方が小鍛治を寝かさないものであるが、何気に試合疲れを心配してくれる面もあって、今夜ばかりは福与自身が早寝を決断したのだ。
苦渋の健全だったのか、シャワーあがりに彼女が呟いたのは 「ぐっ…。触りたいけど、すこやん疲れてるだろうし我慢する」 だった。

 「馬鹿…」

”疲れてるだろうし我慢する” とても暖かい言葉だ。
だが、その次の福与の台詞もまた、ム、とも、ヌ、とも言い難い残像を小鍛治へ残してしまった。
それは彼女が眠りに落ちる前の他愛のない話。
福与の台詞は布団に入ってからも複数続いた。
『しっかし、新人の人達も迫力あったねー。全トビだったけど食らいつこうとしてた感じが凄かったよ』
福与らしい好奇心旺盛な、
『おまけに全員綺麗な子達ばっかだったじゃん?きっとうちの局も放っておかないんじゃないかなー。先に私が声でも掛けておこうかな』
小鍛治にとっては余計な一言だった。
TV局の評価は正直あまり興味がない小鍛治。彼女達がメディアサイドの方で人気が出ることも、それは才能と努力の成果だろうから、いくら台頭してくれても構わないと思う。寧ろ喜ばしいことだろう、前線を退いた先輩としては。
しかし。
しかし、だった。
年下の恋人が放った無邪気な一言だけは、甘々と悔しく感じてしまうのだ。
本当に見目良い選手達ばかりであったので、福与の感想は尤もなのだけれど、だからこそ、何とも言えない影が小鍛治に宿った。
試合で研ぎ澄まされた高度な熱に、それもきっと、拍車を掛けている。

 「こーこちゃんの馬鹿……」

共感は出来るが納得は出来ない心を抱えながら、小鍛治は福与の頬にキスをした。
耳近くのそれに反応するかのように、福与がコロリと寝返りを打つ。
スウスウと夢の中にいる福与の顔が小鍛治側へ向いた。
小鍛治はその様子に 『可愛い』 なんて考えてしまって、隙だらけの寝顔に 「起きて」 と言い掛け ─── ハと慌てて口を噤む。
職業柄、福与の朝は早いと知っていた。
盛んな学生でもあるまいし、こんな身勝手な理由で起こすのは躊躇われる。
小鍛治は福与の寝顔に裏側のみで呟くこととした。
(試合疲れ? 当然あるよ。気遣ってくれてありがとう。だけど、だけどね)

 「………ん…?」
 「あ……」

言葉尻に小鍛治が福与の頭を撫でると、モソと毛布が揺れた。
ベッドが軽い波を打つ。

 「…?? すこやん? …………?? ああ今日泊まり…………え、近っ!?」

下の布団で寝ている筈の小鍛治を異様な近さで見た福与がおののく。
寝ぼけた目を数度さすった後、上半身を起こして、現状理解を口にした。

 「ま」
 「ま?」
 「まさか夜這い!?」
 「!?」
 「すこやん意外に大胆!」

本気で言った訳でもない福与が、じゃれるようにして壁際に逃げた。
小鍛治はその単語に泡を食ったが、心の隅では彼女の目覚めを期待していた自分がいる始末で、否定する言葉を選べない。
気が付けば 「……そう、かも」 という、いつもなら絶対回らないような返事を送り出していた。
起こしてしまって申し訳ないと思うのに、小鍛治の鼓動は速さに促されている。

 「そうなんだ。すこやんが誘ってくれるなんて初体験 ─── って!? 今なんて?!?」
 「……きょ、今日…試合があったでしょ…。それでその…だから…えっと」

毛布にくるまり壁を背にしている福与に小鍛治が五センチ弱の接近を試みる。
だが、俯き加減で視線を上げれば、福与の大層な驚きが見えてしまい、小鍛治はそのまま動けなくなってしまった。

 「…………」
 「あれ?……すこやん……??」

ペタリと福与の手が小鍛治の輪郭に触れた。

 「…すこやん顔赤い……?」
 「…ぅ。赤くないよ」
 「いやいや、暗くても分かるって相当でしょ。 ……試合が原因なんだ?」

寝起きを感じさせていた福与の声が、完全に目覚め始めている。
しかも何故か嬉しそうな息色とくれば、読心この上なく、小鍛治はもう微動さえ不可能だ。

 「顔上げてよ、すこやん」
 「……何か凄いこと言っちゃったかも……忘れて」
 「どーしよっかなー」
 「こ、こーこちゃんっ」

輪郭を沿う福与の親指がゆっくりと頬を辿る。
小鍛治とは対照的な余裕のある動きだ。
先までの驚きは完全に消え去ったようで、その代役を担ったのは、小鍛治が望んだ欲の一端。
福与の目はヘラと笑っているが、その奥では全く別の感情を浮かび上がらせているのだった。
が、福与は頬に触れるばかりでそれ以上のアクションを起こしてこない。
火影絡む視線の中、小鍛治が福与との間を推し量れば、あることに勘付いた。

 「で、どうする? すこやん」

そっと深呼吸をする小鍛治。
機嫌の良い年下の恋人は、どうやら次の一手を ”待ち” と決めてしまったらしい。
おどけた会話なんてものは日常茶飯事な二人でも、今のような情事を匂わすやり取りを、小鍛治から求めたのは希有な例で、だから、福与は普段の人懐っこい笑みを既に諦めてヘラと笑っているのだ。
何とかニヤには成らぬよう努力は続けているようだが、福与恒子という人にポーカーフェイスという単語は向いていないし、どこまでも似合っていない。
顔に書いてある。
小鍛治からの確定的な一言を福与は待っていた。具体的な、と置き換えても良い。
福与はくっきりはっきり嬉しそうに、悪戯好きの子供のような表情で許可が下りるのを待っている。
望んだ側の小鍛治が顔を上げなければ、何も始まりはしないのだ。

 「…………」

が、小鍛治はこういう時、いや、正確にはこれ以上、どうすれば良いのか全く分からなかった。
微熱の体に、引っ掛かった余計な一言、そして、珍しく勃発した駆け引きの空間。
日頃求められることの多い小鍛治からすれば抜き差しならぬ状況なのである。
(─── 駆け引き)
小鍛治はシーツを握りつつその言葉を噛み締める。
普段の様子からは想像も付かないが、福与は稀にこんなやり取りを好むことがあった。
ただ、本人曰く、試す気などは微塵もなく、敢えて表現するのなら、好きだからこそ ”やってしまう” に近い感覚とのことだ。強いられているとも。
小鍛治からすれば傍迷惑な話であるものの、困らされたその後には、更にその何倍もの愛情が届けられている気がするので、怒るに怒れないまま日々からかわれている。
(私も私でいい加減慣れたらいいのに……)
小鍛治はふとこの窮地が麻雀ならと考えて、

 「すこやん今これが麻雀ならって思ったでしょ」

あっさりと福与に見破られた。

 「な、なんで…!?」
 「なんとなく。すこやん主導権は握らないくせに、なんだかんだで負けず嫌いだから」

甚だ愉快そうな福与の物言いに小鍛治は閉口する。
図星であった。
卓上での駆け引きなら自在の一手が見えるのに、と無駄なことを考えたのだ。
なにせ、小鍛治は福与よりも数年多く生きてはいるが、駆け引きと名の付くものは全て、あの快い緑の上に注いできた人種なのだ。
牌を持てば国内無敗。牌に愛され、運に愛され、その横に並び立てる者はいない。
修羅場の数だけ磨かれた技術と速さは七つの永世称号に君臨した程である。
─── が、それが恋人というカテゴライズに変わるだけで、もうこんな風に動くことさえままならない。
卓上ならば唯我独尊・天衣無縫の駆け引きも、福与恒子の前ではただの少しも役に立ってはくれないのだった。

 「……こーこ、ちゃん」
 「!」

どうすれば良いのか見えないまま、小鍛治は久しく打っていなかった手探りで真っ直ぐな一手を放つ。
自在に動けないのなら原点回帰、思うがままの手を、前に。
小鍛治は頬にある福与の手に自分の手を重ねた。

 「明日も早いのに起こしちゃってゴメンね」

ギュと小鍛治は福与の手を包む。
結論から言って、この場では駆け引きという高尚な心理戦は披露出来そうになかった。
勝ち負けで区切るのなら、この時点で完全に負けている。
小鍛治に残された手段は、今の正直な気持ちを福与に差し入れることのみ。

 「でも今日は……」

福与の手を頬から外した小鍛治が、その手を自分の胸に押し当てる。

 「ちょっと……こーこちゃんに…触って欲しくて……」

酷く早い鼓動が二人に共有された。
福与の視線は彼方に逸れ、幾分の絶え間を見せるが、タイムラグを超えた次の動きは加速を極めた。

 「さすがすこやん……これが噂に聞く日本最強」

福与の体重を受けた小鍛治が後ろへ倒された。
ズレなく動く福与の指が、慣れた動作で小鍛治の手首をベッドへ縫い付ける。
小鍛治の首筋には柔らかな刺激の気配。

 「……ッ」
 「……プロだから当然なんだろうけど、ホントすこやんは麻雀馬鹿だよね…。やっと分かった。試合の日にすこやんを誘ってもなかなか泊まっていかない理由。もっと早く言ってくれれば良いじゃん」
 「だって……恥ずかしい、でしょ。さすがに毎回じゃないけど、こーこちゃんは朝早い仕事も多いし、疲れてる時とか、気乗りしない時だって」
 「ないけど?」
 「即答!?」
 「すこやん……地上最強のくせにまるでなってない。読みが浅い」
 「そんなことな……って、またハードル上がってる!?」
 「二十代の体力を侮り過ぎ」
 「私も二十代だけどね!?」
 「え」
 「何その初耳みたいな反応、怒るよっ」
 「てっきり十代かと……」
 「そっちのパターンもあるの!?」

音もなく移動していた福与の指はいつの間にか小鍛治の服を肌蹴させていた。
小鍛治はピクと反応するものの、これだけは言っておかなければとギリギリの平静を保つ。

 「私の麻雀馬鹿は間違ってないけど、こーこちゃんも馬鹿……。今日のコレは……半分以上はこーこちゃんのせいなんだから」
 「私?」
 「いつもなら少し眠りにくくなったりするぐらいで、我慢が利かなくなるまでにはならないよ…………。ただ、今日はこーこちゃんが ”綺麗な子達ばっか” とか ”自分で声を掛ける” とか言うから……」
 「へ」

照れるようにして小鍛治は福与の背に手を回した。
自分の身体も相当に熱いが、福与も体温外の熱を持っている。

 「……だから…今日は麻雀よりもこーこちゃんが悪い。こーこちゃんが馬鹿」

回した腕に小鍛治が力を込める。
福与がゴクリと唾を呑んだ音が聞こえた。

 「変な気持ちにさせられて……こーこちゃんは意地悪で…勝てないし……でもそれが嫌じゃなくて」

短く離れた小鍛治は肩から下がった福与の髪をゆるく掴み、彼女の目を引いた。
そして、覆い被さっている状態の福与に、自ら唇を触れさせる。
合わせただけの唇も、次には、福与が小鍛治の口を完全に塞いでしまった。
小鍛治を襲う軽い酸欠。
空気の狭間で福与が言う。

 「それは確かに私が悪い」
 「笑いながら言われても。……って、なんで私こんなにムキになってるんだろう…………」
 「いいよ、すこやん。もっとムキになって。麻雀で負けないんだから、せめてこういう時くらいは負けて倒されて困って ─── 甘えてくれないとね」

滑舌の良い福与の声が耳元で響き、小さなキスが再び。

 「それにさ、私って麻雀より強いから、いくら日本一のすこやんでも勝てないようになってるんだって」
 「麻雀より強い?」
 「ほら、すこやんってよく牌に愛されてるだの運に愛されてるだの、何かもう強過ぎるから麻雀自体に愛されてるだのって言われてるじゃん?」
 「うん。そうみたい」
 「それを含めて考えてもさー」
 「?」
 「私よりすこやん愛してるのなんていないっしょ」
 「ああ、うん……麻雀より強……い。…………えぇ!?!?」
 「ということで、すこやん試合後は今後必ず私の家に泊まること。はい、決定」
 「どういうことなの!? 決定!?」
 「決定」
 「私に拒否権は!?」
 「いる?」
 「………………い…らないけど」

小鍛治は全部を朱に染めながら、今度は額に降りてきた福与を受けた。
甘く下から見上げる景色だった。
湧き上がる試合以上の熱情も、福与にだけは絶対勝てないのだと小鍛治は思う。
ある種、この日本で、小鍛治健夜を負かすことの出来る人間なんて、福与恒子くらいなものだった。


















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