この瞬間、福路はありありと苛立った自分を感じていた。
目の前では怒りに不慣れな竹井が揺れている。
そうさせたのが自分だと考えると、焼け付くような思いが溢れ出した。
怒って良いに決まっている。一週間も許してくれたのだ。優しい貴女のそれは怖くない。
だけど。
この期に及んで、底知れぬ恐怖だけがキッチリあって、まだ私はその根元に辿り着けていない。
言いたいのに、分からないままだから伝えられない現状。
はっきりとしていることは、私は変わらず貴女が好きということだけ。



苺味の閉塞心 <中編>



竹井久が帰った後、福路美穂子は自室で膝を抱え込んだ。
目には分厚い涙が溜まっているが、だが意地でもそれを流すことは出来ない。
この事態を作り上げたのは他の誰でもない自分自身だ。
誰が見ていることでもないが、今はその動きも卑怯に思えるのだった。

 「私っ…」

福路が彼女と付き合い始めたのは数ヶ月前だった。
白と藍を基調とした制服がよく似合う、とある学校の部長 ─── 竹井久。
新たな出逢いではなく、その実、再会の一石。
約三年前の足跡が運んだ奇縁は、諦めようとして諦め切れなかった奇跡の到来だった。
あの夏を忘れた事なんてない。以降の春夏秋冬は忘れ方を教えて欲しいくらいだった。
だから、わざわざ思い出す必要もなくて、一息で心を意識していた。
視界のピントはまるで竹井に吸い寄せられるように集まり、のぼせるような心地がする。
寝ても覚めてもその姿に呼び込まれる深刻な胸は、痛みをも獲得してしまった。
不安定さの行く末は、奇跡の到来、そう、恋だった。
本人不在のままで育っていた心は、ようやく形として知覚されたのだ。
福路はその熱心な瞳を我慢して、我慢して、我慢していたつもりで、でも完全に見透かされていて、
『ねえ、美穂子って私のこと好きでしょ? ああ当然Likeじゃない方のね』
結果、福路はこんなにも簡単に竹井に暴かれてしまった。軽然とした素振りに含まれる決断の微笑に、福路は沈黙を返せない。答えだって千日以上前から決まっていたに違いなかった。
熱夏を共に過ごせた日々が、日々が、嬉しくて、嬉しくて、いつの間にやら欲張りになっていて、
『……はい』
掠れた声が、さも当然とも言うべき肯定を竹井へ弾き出す。
ようやく、言えた。本懐だった。
だが、言った後すぐに下を向いた福路に喜びの表情はない。
ようやく言えた。しかし ─── 『言ってしまった』 という自責の方が先に立っていた。
どうしよう。どうしよう、伝えてしまった。
後悔があって、後悔はないと信じて、結局は後悔していた。
ずっと見ていた。バレていたから、気味が悪いと思われる。嫌われてしまう。
この奇跡を諦めたくなんかない。貴女が、好き。一目会った時から、貴女が、好きだった。
福路の身体が細々と震え始める。
終り、とただ思う。いや、始まってもいないのに終りとはおこがましいだろうか。
こんな感情を知られたからには、もうきっと友人にも数えてもらえない。
嘘を付いてでも違うと言えたら良かったのに、しかし、千日近く連れ添ってきた心はどうやったって欺けなかった。
『やっぱり?』
愕然としている福路に、そんな短い竹井の声が届いた。
福路は竹井から拒絶される覚悟をして面を上げる。
目の前には心得顔をした竹井が居て、そして、珍しく照れくさそうに笑った。
『私もそうみたい』
もう一度、福路が愕然とした。
福路の震えが止まった。

─── 二人はこうして始まった。
夢にも思わなかった竹井の告白と、おおよそ人が輝けるであろうプラスの感情を更に何乗にもしたかような福路の破顔を以て、二人は始まったのだ。

そして、始まったからには前へと進むものがある。関係がある。
会って話して好きを深めた二人は堂々たる恋人同士で、下手に周りが羨ましがれないくらいには甘やかだった。
間もなく手を繋ぎ、間を掛けて唇を合わせた。
幾重にも確認される好きと好き。恋人関係。
表面での愛撫はもう充分になされ、もはや次へ進まなければならない程、二人の関係は間際まできていた。竹井久、福路美穂子、二人のどちらともが機宜の采配を窺っていた筈である。
福路は竹井を大切に思い、竹井もまた福路を大切にしていた。
何もかもが順調に進み、輝く毎日の中で、障害の ”し” の字も見えない。
この次の段階にもそうやって上手く進めたら良い。少しの恥ずかしさはあるけれど、これまでの毎日のように、楽しく幸せに ────── そう、思っていた。
福路は、そう思っていたのだ。

けれども、順調ばかりとはいかないようで、心を通わせ続けていた秋にその隔壁は訪れる。
本当に急なことだった。
嵐も何の気配も感じることがない日常で、福路は違和感へ導かれたのだった。
『美穂子…?』
福路は、竹井と目を合わせられなくなっていた。
合わせようとしても、直ぐに流してしまって、決して戻せない。
『─── ふうん』
目を合わせられないだけではなかった。竹井が不安気にブツけてくれた視線も、また何気なく絡めてくれた手も、福路は必ず自ら離してしまう。
離さなければ、得体の知れない恐怖に押し潰されそうになり、呼吸も困難になるのだ。
─── 怖い? 何、が。
何でもないように取り繕いながらも福路は惑っていた。
竹井が怖いのではない。自分に限って、そんなことは想像でさえ成立しない。
だが、徹底的なまでの苦しさだった。まるで陸に打ち上げられた魚の如く。とても。
福路は眩暈を感じながら重ねて確認する。
竹井が怖いのではない。
しかし、確かに恐怖のような底気味がある。
そしてその感覚は竹井久が傍にいる時にのみ浮上している。
何が起きているのか分からなかった。
どうしたの、と竹井から訊かれても、いえ、としか答えられず、何もなくはないでしょう、と言われれば、いえ本当に、と芯から繰り返すしか選択肢がなかった。
分からない。怖い。触れられようとすると、彼女の視界から逃げたくなる。
前進しようかという間際に一体何が起きたのだろうか。
怖くないのに、怖い?
答えたくても、福路には零回答を濁すしか出来なかった。




その後、竹井は会う日の数回を様子見てくれたが、福路の背冷えはようとして拭えず、隔壁は一定の厚さを保ちながら二人を拒んでいた。
そんなある日、福路は竹井に訊かれたことがある。
淡々と、深い吐息の中に焦燥のようなものを混ぜながら。
『私のこと嫌いになった?』
時間が止まったような気がした。何かに殴られたような気がした。
この時、自分はどんな顔をしていたのだろう。
とても酷い顔をしていたと思う。例えば、世界の終りのような、そんな顔を。

 「……でも、久も……辛そうな顔……」

そして遂には、別れ、という最悪が福路の思考を占める。
事実、福路は人との関係構築を苦手としており、この結末も慣れているようなものだった。
お節介のくせに臆病で、生まれ持った両目の特殊が周りを遠ざけることもしばしば。
誰かが言った ”ウザい” という言葉はまさに自分向きだ。
今までの人生、この気質のお陰で、友人も少なかったという自覚がある。
慕ってくれる人が全くいないという不幸でもなかったが ─── 何事も一歩後ろから人と付き合うのが福路美穂子という人間のスタンスだった。

 「なのに……」

だが、そういう殻さえも、あの人には関係させて貰えないようで。
愚かなまでの一目惚れ。
相手のことなんて何も知らないのに、身の中心は彼女を探し続け、両目は彼女のことを映したがった。
一歩後ろからでは耐えれない。後姿では駄目だった。それだけ好きになった人だった。

 「なのに…私…怖いなんて…どうして…」

日々怖さと向き合った福路だが、それも限界がこようとしていた。
流し続けていた視線を、必死の努力で向けてみれば、竹井の瞳は見たことも無いような圧を、片思いであったあの時には出合えなかったような激しさを、いや、きっと、それ以上のものを光らせていた。
『美穂子、私はそろそろ怒って良い頃よね……?』
細くて低い声だった。
いつもの穏やかさが覆されたような。
『……さすがの私でも言ってくれなきゃ分からないこともあるわよ』
竹井が福路を壁際に追い込む。
顔の両横に手を付け、捕縛し、吐息距離に定められた。
『……ッ』
この瞬間、福路はありありと苛立った自分を感じていた。
目の前では怒りに不慣れな竹井が揺れている。
そうさせたのが自分だと考えると、焼け付くような思いが溢れ出した。
怒って良いに決まっている。一週間も許してくれたのだ。優しい貴女のそれは怖くない。
だけど。
この期に及んで、底知れぬ恐怖だけがキッチリあって、まだ私はその根元に辿り着けていない。
言いたいのに、分からないままだから伝えられない現状。
はっきりとしていることは、私は変わらず貴女が好きということだけ。
『私のことが嫌いになった─── 』
いつの間にか俯いていた福路はこの一言で顔を上げた。
『!! そんな』
あり得ない。
痛切に思った。
そう言われても仕方がない行動を取っていたとしても、それだけはあり得ないのだ。
『って事はなさそうだけど……』
福路は竹井を見る。
辛そうな顔を何とか押さえ込もうとしている竹井に、福路の方が涙を溜めた。
『え、…ひ、久…!?』
福路の顎が竹井の力によって持ち上げられた。
反射的に驚いてしまった福路は増していく恐怖にビクと身体を振る。
だが、キリキリと心臓が摩擦を起こす中にあっても、竹井の温度に安らぎのようなものを感じて、やはり、彼女自身のことが怖いのではないのだと確信した。
『…………』
しかしそれならば自分は何に恐怖を覚えているのだろうか?
分からない。
どうしても分からなかった。
『また逸らすの? そんな目をしておいて』
辛い表情に崩れながら、竹井が福路を咎める。
結ばれる三色の瞳は、一色が二色を、二色が一色をそれぞれ違う感情で縫い付けた。
─── 逸らしたくない。
全部、訳の分からない自分のせいだ。
好きな人をこんなに追い詰めてまで自分は何がしたいのだろう。
分からない。
脈も呼吸も滞ってしまいそうだった。
不本意ながらも糧となる苛立ちがグラリグラリ息苦しい。
せめて、恐怖心だけは悟られないようにと意識はしたけれど、もう、手遅れだった。
『…、!っん、ん』
胸裏を整える前に、竹井の唇が強引に迫った。
合わさった次瞬に絡め取られた舌で、中を咬むように撫ぜられる。
『…ンッ』
隙間で何とか呼吸をして、長く、閉じる隙もなく互いの味が交換された。
止めて欲しくない。
無性に思うのに、やはり不明に怖かった。
自分の胡乱さに呆れていた。
止めて欲しくない。
そんなことを繰り返していると、二人の熱がトロリと溶け出し、乱れた息と二人の唾液が口端の輪郭を沿った。
『久!!』
しかし、呼吸の切れ切れが見えたその時だった。
『あ…』
福路は竹井の肩を強く突き飛ばした。他でもない、自分の意志と自分の手で。
『美穂子……』
潜めた傷心で竹井が離れる。
『久…………』
離れる。竹井が、離れる。
怖、い。怖い?怖い。
自分で離しておいて、何の勝手を思うのか。
『ごめん……』
『久!違うんです、今のは…!』
『……怖がらせるつもりじゃ、無かった』
福路は行き場のない波立ちを噛み締める。
違う。貴女が怖いんじゃない。絶対に違う。
別の何かがある。
だけど、もう本当に分からない。
グラリグラリ息苦しい。
─── だって。こんなにも貴女が好きで、怖いなんて意味が分からなくて、久が謝る必要なんて無くて、傷付けたのは私なのに、久に加害者みたいな顔をさせた。
ごめんなさい。
好きな人にまで付き合い下手な自分でごめんなさい。
好きなんて、大好きなんてこんな気持ち ─── きっと自分には扱えないモノだったのだ。

 「……絶対に嫌われ……ッ」

口にした時、福路の鼓膜を涙の音が叩いた。
流すまいと決めていた筈なのに、堰を切ったように押し出される雫。
福路は抱えた膝に目を押し当てながら、そんな自分を嫌悪した。
卑怯だ、こんなのは。
全部全部自分が蒔いた種なのに、泣くことで反省している気になって、自分を守っている。

 「怖くないのに……怖い…………でも…怖くなんて、ない」

何度だって言える。見えない壁、恐怖の正体は竹井久にあるのではない。
福路は断ち切れない涙を拭いながら思惟にふける。
好きしかないのに、私はどうしてあんな態度を取ってしまうのか。
そして私は、何をそんなに脅えているのだろう。

 「…………」

福路は両目を擦りながら考える。
─── 私が恐怖のようなものを最初に感じたのはいつだっただろう。
久はいつでも人に囲まれていたけれど、そんな大きなところも好きだった。それにその程度では不安になれない程の大切を注いでくれていたから、その種のものが脅えの対象にはなることはない。
もし誰かに一生のお願いだと頼まれてたとしても、私には決して出来ないだろう。
福路は両目を開いて竹井を浮かべた。
考えれば考えるほど、恐怖を感じる必要性がなかった。
にも関わらず、現象は必ず竹井が傍にいる時にのみに発生して、竹井が近くに居れば居るほど、恐怖は深まった。
福音だけのそこに這入り込むものは何。
分からない。
また息苦しくなる。
後ろの立ち位置にばかり逃げてきた自分だから、こんな肝心な時にシワ寄せがくるのだ。

 「…………あ」

竹井を思い、ただ熱が過ぎ、痛みに見舞われ。
胸に手を当てたその時、福路は唐突に気が付いた。
解せない恐怖の原水、起源とでもいうべきものがそこにあった。

 「私…こういうの自体が…………初めて……?」

そういえば、今までの人生、人との関係性において、怖いなどと感じたことが無かった。
怖いと認識出来る程、積極的になれなかった。なりたくてもなれなかった。
小さな頃から自信がなくて、よく泣いて、かといって人に合わせるのも苦手。
こんな風に十数年を過ごしていると、もう居場所は限られてしまって、当たり前のように一人の時間が多くなった。
『優しい』と言ってくれる人もいたけれど、『押し付け』だと言う人の方が大半で、いつしか人の輪には入れなくなっていた。
だから、知らなかった。
自分を諦めた弊害として、誰とも深い仲にはなれなかった。
周りも無意識にそういう認識で、そしてそれは正しくて、何も間違ってはいない。
もちろん、共に全国を目指した麻雀部のメンバーとは取り分け特別な繋がりを感じているが、自分はただ一人の上級生レギュラー、キャプテンはキャプテンを務めなければならず、それを労としたことは露もないが、寂しいかなやはりここでも水のようなものを抱えているのだ。

 「そう…。私はどこか諦めていた……。けど……久のことだけは諦め切れなかった」

─── そう。そうだった。私は人に執着しようとしたことも、してもらえるようなこともなかった。
私は怖かった。
久と合った視線を ”久の方から” 逸らされるのが。
握られた手を ”久の方から ” 解放されるのが。
抱き締められた身体を ”久の方から” 離されるのが。
故に、”自分から” 全て逸らし、解放し、離していた。
”好きなのに怖い” のではなく ”好きだから怖い”
これが人を好きになるということ。
久は私が執着した初めての人で、私に初めて執着しようとしてくれた人なのだから。

 「怖いくらいに好きだっただけなんて……」

福路は足を抱え寄せ、身体を丸めながら、軽い呼気を落とした。
そっと下ろした瞼で視界を閉ざす。
なるべく客観的に今後の行動を整理する。
心配を沢山掛けて、傷付けて、非があるのは完全にこちら側だ。謝らないと。
ごめんなさいでも申し訳ありませんでしたでも何でも良い。許してくれるまで。
それに、「理由が分かったから……」
もう怖くなんてない。
そもそも、急な恐怖でもなかったのだ。
付き合い始めて数ヶ月、前々から小さく降り積もっていたものに、たまたまあの日、壁として辿り着いてしまった。
得体が知れず、漠然としていたから、脅えて、過剰に反応してしまっていたけれど。

 「もう、大丈夫」

福路は身体を起こして窓を見る。
眩しい夕焼けが竹井の赤毛と重なり、会いたいと思った。
いや、絶対に自分から会いに行かなければならないと。

 「問題はいつ…………」

福路は置時計を見遣った。

 「早い方が……」

置時計は夕焼けが示す通り、夕刻を差していた。
時間をはかる。今から電車に乗って彼女の家に行ったとしても、帰りは終電を過ぎてしまうだろうから、帰って来ることが出来ない。
電話…?いや、それでは駄目。声だけでは済ませられない。

 「……帰りのことは後で」

福路は家を飛び出した。
無計画な自分に苦笑して、そして、そんな執着心を持っている自分が嬉しかった。
福路は思う。千日を掛けても諦め切れなかった奇跡、こんな夏はもう二度とやっては来ないから ─── 『私のこと嫌いになった?』 ─── 言ってしまおう。貴女のことが怖いくらいに好きなのだと。



















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