物心付いた頃から、そこそこの人心掌握には長けていたようで、外から見透かすのは得意だった。
何事も慎重に、大胆に、器用に、上手く、やってこれたような気がする。
こんな風に十数年を過ごしていると、もう大体何でもソツなくこなせるようになってしまって、当たり前のように誰とでも仲良くなれた。
『別にそんなことはない』 と言えば謙遜と返されるので、いつしか”そう”として受け入れていた。
友人、クラスメイト、生徒議会長 ─── 竹井久は自他共に認めるような人気者だった。
人気者だった、だから、広く浅かった。



苺味の閉塞心 <前編>



自室に帰ってくるなり、竹井久はそのままベッドに倒れ込んだ。
狭くなりがちな酸素補給が重力全てを受け入れている。
制服を着替えなければならないが、今はその動きも億劫だった。
脳裏の隅々は、違う方向ばかりへと向いている。

 「どうしたものかしら……」

竹井が彼女と付き合い始めたのは数ヶ月前だった。
白とピンクを基調とした制服がよく似合う、とある学校のキャプテン ─── 福路美穂子。
新たな出逢いのようで、その実、再会の一石。
約三年前の足跡が連れて来た奇縁は、青光を伴った風のようなものだった。
思い出して、気付いて、感じる。
疎くはない性分のお陰で予覚は早かった。
柔らかい、としか形容のしようがない彼女の風姿に不釣合いな程の情感と募り過ぎた双眸。
不安定さの行く末は、そう、自分だ。
竹井はその熱心な瞳に、晒されて、晒されて、晒されて、もう完全に見え切っていて、
『ねえ、美穂子って私のこと好きでしょ? ああ当然Likeじゃない方のね』
結果、竹井はこんなにも簡単に福路を暴いてしまった。まるで今日の献立を決めかねないような軽さに、彼女は何を思ったことだろう。
だが、暴いた側の竹井とて、不思議な感覚で福路を見ていたに違いなかった。
熱夏を過ごす日々に、日々に、日々に、懸命な瞳に、いつの間にやら巻き込まれていて、
『やっぱり?私もそうみたい』
と、魅せられていたのだった。
浅い交流期間で、一体何を見い出し、何を揺さ振られたのかは本当のところ分からない。
昔の記憶、容姿、麻雀の見事さ ─── どれも正当だが、どれも弱いような気がしていた。
ただ、一つ言えることは。
竹井久は福路美穂子に巻き込まれ、甘酢のようなものを覚えさせられた。
竹井はその生まれ持った愛嬌から、好意を寄せられることには慣れていた筈であるが、彼女のような赤裸々さとは初対面だ。
嘘や打算がミリ単位も伝わらない。
いっそ新手の宣戦布告かとさえ思った。
伝播する本気がどうしようもなく甘酸っぱかった。
澱みなく人に囲まれてきた生活の途中に放り込まれた青い熱量は、確かに竹井の胸を弾ませたのだ。竹井にとっては誰に対しても向けたことのない、世にも不思議な感覚だった。

─── 二人はこうして始まった。
竹井の密やかな甘酢と、おおよそ人が輝けるであろうプラスの感情を更に何乗にもしたかような福路の破顔を以て、二人は始まったのだ。

そして、始まったからには前へと進むものがある。関係がある。
会って話して好きを深めた二人は堂々たる恋人同士で、下手に周りが羨ましがれないくらいには甘やかだった。
間もなく手を繋ぎ、間を掛けて唇を合わせた。
幾重にも確認される好きと好き。恋人関係。
表面での愛撫はもう充分になされ、もはや次へ進まなければならない程、二人の関係は間際まできていた。竹井久、福路美穂子、二人のどちらともが機宜の采配を窺っていた筈である。
竹井は福路を大切にし、福路もまた竹井を大切に思っていた。
何もかもが順調に進み、輝く毎日の中で、障害の ”し” の字も見えない。
この次の段階にもきっと上手く進めるだろう。円滑に成功した告白のように、これまでの毎日のように、きっと上手く進める ────── そう、思っていた。
少なくとも竹井はそう思っていたのだ。

けれども、順調ばかりとはいかないようで、心を通わせ続けていた秋にその隔壁は訪れる。
本当に急なことだった。
嵐も何の気配も感じることのない日常で、竹井は違和感へ導かれたのだった。
『美穂子…?』
福路が、目を逸らすようになった。
合うには合うが、直ぐに流れて戻らない。
付き合い始めてからも変わらず篤実で在り続けた彼女の、これは、最初の迷いである。
『─── ふうん』
竹井は自分の顎に指を添えて、間髪入れずに頷いた。
確認完了。
喧嘩をした覚えもないし、気まずくなるようなこともない。後ろめたいようなことも当然なかった。
ならば、と竹井は福路に探るような視線をブツけてみる。
が、やはり青と栗の瞳が逃げるように惑う。
また何気なく絡めた手も、必ず彼女の方から離れていった。
どうしたの、と訊けば、いえ、と申し訳なさそうに答えられ、何もなくはないでしょう、と言えば、いえ本当に、と芯から申し訳なさそうに眉を下げられた。
竹井は納得出来ない。そんな風に苦笑されても、彼女が自分との関係性において悩みを抱えていることは明らかだった。
心当たりはない、が、意味はあるのだ。間違いなく。
断言しても良い。彼女は、意味もなくこんな態度が取れる人間ではない。
前進しようかという間際に一体何が起きたのだろうか。
分からない。
見出さなければならない。
竹井はひりつくような暗中を模索見る。




その後、竹井は会う日の数回を様子見に徹したが、違和感はようとして拭えず、隔壁は一定の厚さを保ちながら二人を拒んでいた。
竹井は試しに福路に訊いた。
淡々と、深い吐息の中に焦燥を混ぜながら。
『私のこと嫌いになった?』
問い掛けたのは竹井の方だが、意表をつかれたのもまた竹井であった。

 「そんな世界の終わりみたいな顔……」

そして遂には、押しても駄目なら引いてみろ、という格言が竹井の思考を占める。
事実、竹井は中心で動き回るよりも、裏で糸を引く役回りの方が自分向きなのであった。
今までの人生、この気質のお陰で、ある程度器用に生きてきたと自負している。
黒幕に立っても黒役にはならず ─── 何事も一歩後ろから見透かし運ぶのが竹井久という人間のスタンスだった。

 「私も若いなあ」

だが、そういう訳さえも、今回は関係させて貰えないようで。

 「何であんなにイラついたんだか。私のキャラじゃないでしょうに」

押しても駄目なら引こうとする竹井だが、それを許さなかったのは福路だ。
福路の様子が変わってから一週間が過ぎた今日、竹井は驚かされる。
謎は更に混迷を極めた。
流され続ける視線を、参った溜息で盗み見れば、彼女の瞳は同じ、片思いであったあの時の熱烈を宿したまま、いや、きっと、それ以上のものを光らせていた。
『はあ……』
行動と真逆を示す瞳。口よりも雄弁なその瞳。
『何よその矛盾……』
この瞬間、竹井はありありと苛立った自分を感じていた。
そしてそんな己に寸時白黒する竹井だが、一度認識してしまうと駄目だった。
常ならばどれだけ腹立たしいことがあっても澄まし返せていたプロセスが働かない。
機能しているのは、そこを埋め溢れさせてしまいそうな痺れである。
違和感に撫でられた数日は、多少なりとも竹井を煮詰まらせていたのだ。
決して楽ではない一週間だった。涼しく平静な装いは、本人の知らぬ進度で崖の淵に立っていた。
『美穂子、私はそろそろ怒って良い頃よね?』
嫌な声だと思った。
細くて低いこんな声が自分に出せるのかと。
『……さすがの私でも言ってくれなきゃ分からないこともあるわよ』
竹井は今度こそ逸らされないように、福路を壁際に追い込む。
顔の両横に手を付け、捕縛し、彼女の心事を見定める。
『……ッ』
俯く福路だが、
『私のことが嫌いになった─── 』
この一言で顔を上げた。
『!! そんな』
『って事はなさそうだけど……』
竹井は見た。
ほらやっぱり世界が終わるような顔をする。
欲しがってくれてるんじゃない。
何が目的で壁を作るのかは知らないけれど、こんなもの、もはや違和感という話では済まない。
『え、…ひ、久…!?』
福路の顎を竹井が力ですくった。福路の非難があがる。
『また逸らすの? そんな目をしておいて』
表情を変えずに、崩さすに、竹井が福路を咎める。
結ばれる三色の瞳は、一色が二色を、二色が一色をそれぞれ違う感情で縫い付けた。
─── 逃がさない。
例えようのない衝動が竹井の中にあった。
脈も呼吸も滞ってしまいそうだった。
こんな激情を持ったことがあっただろうか。
不本意ながらも糧となる苛立ちがグラリグラリ息苦しい。
自制の線を意識したとて、もう、手遅れだった。
『…、!っん、ん』
福路の唇を竹井が自分のそれで拘束する。
強引に合わさった次瞬で絡ませた舌を咬むように味わった。
『…ンッ』
隙間で呼吸をさせて、長く、閉じさせないように粘膜をねぶる。
止まらない。
無性に腹が立っている。自分で呆れるくらい苛立っている。
止まらない。
そんなことを繰り返していると、二人の熱がトロリと溶け出し、乱れた息と二人の唾液が口端の輪郭を沿った。
『久!!』
しかし、それも長くは続かなかった。次の段階なんてものは以ての外で、福路の鋭声が響くと同時に竹井の肩は強く突き飛ばされていた。
『あ…』
『美穂子……』
潜めた傷心で竹井が離れる。
『久…………』
福路の眼差しにはやはり熱烈があるが、それと等しい量の恐怖も実っていた。
竹井は我に返る。
狭ばっていた視界が広みを取り戻し、今にも耐えられなくなりそうな福路の涙に全身が軋む。
『ごめん……』
『久!違うんです、今のは…!』
『……怖がらせるつもりじゃ、無かった』
竹井は行き場のない波立ちを噛み締める。
神に誓って、怖がらせたかった訳じゃ無かった。脅えさせるつもりなど。
上手く、進まない。
分からない。
グラリグラリ息苦しい。
─── だって。違和感を抱かせたくせに、恐怖を訴えたくせに、謝った私を見て、美穂子は私よりも傷付いた顔をする。
赤裸々な表情と本気の瞳に好きだと書いてある。今この時にも伝播している。
分かっているから。
分かってしまうから。
こんなにも息苦しい。

 「あーあ」

ベッドで寝返りを打った竹井は、生涯最大ともいえる具合の悪さで笑った。
なにぶん、竹井は日常生活において自制を欠いた経験など皆無に等しい。
今回の外れた一面には竹井本人が誰よりも戸惑っている。

 「上手く進んでも…良かった筈でしょ」

竹井にはあり得ないことだった。相手の気持ちも自分の気持ちも固まっているのに、もうどうにも透けているのに、見えない壁が立ちはだかるなんてことは。
竹井は胸の内で思惟にふける。
好きでいてくれるくせに、彼女はどうしてあんな態度を取るのか。
そして私は、何をそんなに苛立ち焦ったのだろう。

 「…………」

竹井は考えながら首を捻った。
─── しかし、こうして改めて考えてみれば、普段の私ならば、私は私のスタンスを十分に守れたであろう程度のことしか起こっていない。 彼女の気持ちはしっかりと見えていて、彼女が理由もなく自分を遠ざけられる子ではないとも知っているのだから、今はちょっとした何かがズレているだけ。その何かは確かに問題だが、ちゃんと好き合っている以上、焦る理由にはならない。
他人事としてアドバイスを送るなら、もう少し様子を見て、ゆっくりと話を訊いて、相手ときちんと向き合ってみること ─── そんな言葉を組むに違いない。
いざ自分が中心になった時、息苦しいほど難しくなるとは思いもしなかった。
きっと後ろの立ち位置ばかりを選んできたツケが回ったのだろう。

 「そういえば」

福路が浮かび、甘酢が過ぎ。
胸に手を当てたその時、竹井は唐突に気が付いた。
自分の苛立ちと焦りの行動起源がそこにはあった。

 「…………私、初めてなのかも知れない」

そういえば、今までの人生、人との関係性において、苦しいなどと感じたことが無かった。
器用に運ぶことは十八番。
彼女と ”始まった” 時だって順調の一言。
他人との関係性に躓いたことがない。
物心付いた頃から、そこそこの人心掌握には長けていたようで、外から見透かすのは得意だった。
何事も慎重に、大胆に、器用に、上手く、やってこれたような気がする。
こんな風に十数年を過ごしていると、もう大体何でもソツなくこなせるようになってしまって、当たり前のように誰とでも仲良くなれた。
『別にそんなことはない』 と言えば謙遜と返されるので、いつしか”そう”として受け入れていた。
友人、クラスメイト、生徒議会長 ─── 竹井久は自他共に認めるような人気者だった。
人気者だった、だから、広く浅かった。
誰とでも仲良くなれる弊害として、誰とも深い仲にはなってこなかった。
周りも無意識にそういう認識で、そしてそれは正しくて、何も間違ってはいない。
もちろん、共に全国を歩いた麻雀部のメンバーとは取り分け特別な繋がりを感じているが、自分はただ一人の上級生、部長は部長を務めなければならず、それを労としたことは露もないが、寂しいかなやはりここでも水のようなものを抱えているのだ。

 「そっか。私は今まで本気で人を好きになったことがなかった。……だから美穂子の本気が何よりも嬉しかった……」

─── そっか。そうだったのか。私は他人に執着したことも、されたこともなかった。
上手くやれなくて器用に立ち回れなくて当然だ。焦りもする。
これが、人を好きになるということ。
あの子は私に執着した初めての相手で、私が初めて執着する相手なのだから。

 「もしかしたら美穂子も同じようなものなのかしら。……自分で言ってたものね。人付き合いは下手だけど……その中での初恋だったって」

内約に差はあれど、自分と似たような ”初めて” を彼女が携えていたとしたら。
本人にも事情がよく分からないまま、曖昧模糊の中で悩んでいたのかも知れない。
可能性はある。
付き合い始めて数ヶ月、何かの壁に辿り着いてしまうとしたら、その順番は彼女の方が早いに決まっているのだ。
何故なら、福路美穂子はもう三年以上も前から ───

竹井はシーツに移った体温を握り、身体を丸めながら、軽い呼気を落とした。
目に腕を伏せて視界を閉ざす。
なるべく客観的に今後の行動を整理する。
力に任せて怖がらせたのは完全にこちらに非がある、謝ろう。
ゴメンでもスミマセンでも何でも良い。許してくれるまで。
ただし、「いい加減美穂子も話してくれないとね……」
話してもらう。違和感の理由を。
私はもう引かない。

 「決定。まずは謝る、そして話してもらいましょう」

竹井は上半身を起こして天井を見た。
制服を着替えてないことを思い出して、タイを外し、首元を寛げる。
何も解決してはいないのだけれど、ほんの少し、息苦しさから抜け出せた気分だった。

 「問題はいつ…………」

竹井は腕時計を見遣った。

 「早い方が良いわよね」

腕時計は夕刻を越え、夜刻を差していた。
時間をはかる。今から電車に乗って彼女の家に行ったとしても、帰りは終電を過ぎてしまうだろうから、帰って来ることが出来ない。
電話…?いや、そんなものでは駄目だ。声だけでは逃してしまうものがある。

 「……帰りは、何とでもなるか」

竹井は家を飛び出した。
無計画だなと失笑して、そして、そんな執着心を持っている自分が嬉しかった。
竹井は思う。この心地よく慣れない感覚を引き出せるのは彼女だけだから ─── 『私のこと嫌いになった?』 ─── あの時、世界の終わりのような顔をしていたのは、本当は、自分の方だったのかも知れない。


















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