それは、確か小学生になったばかりの紺碧の空。
妹尾佳織が蒲原智美の誕生日にプレゼントした小さな紙切れだった。
材質は画用紙。サイズは切符を二回りほど拡大させた長方形。
当時は切り取り線付きの連枚構成で、数は恐らく十枚前後であっただろうか。
幼少期ならではの完全ハンドメイドによって生み出されたプレゼントには、こう記されている。
『なん■もけん ─── ゆ■■■きげ■ ■■■■ ─── せのおか■り』
その権限、世界最強につき!
終業チャイムが鳴ってしばらく。
鶴賀学園麻雀部へ連なる廊下を妹尾佳織は歩いていた。
隣には部長を務める蒲原智美がいて、道案内がてらにその手を引いてくれている。
「いよいよ仮入部だなー、佳織」
蒲原が持ち前の笑顔を発揮しながら言う。
「う、うん。でも本当に私で良いの…? 麻雀のルールなんて全然知らないし」
「入ってくれるだけでも意味があるんだ。ルールだとかは後から覚えれば良いぞー」
帰宅部である妹尾へと麻雀部からの打診があったのは数日前、初夏の季節であった。
それは何の前触れもない下校時のこと。
川沿いの小道を二人で歩く日常の一コマに、その瞬間は紛れ込んだ。
(智美ちゃん…?)
妹尾は蒲原の天性とも言うべき笑顔が、笑顔のまま真率を帯びる夕暮れに出くわしたのだった。
幼馴染だからこそ届く鮮少の変化に妹尾の首が傾げられる。
(珍しいな。どうしたんだろう)
だが、妹尾は蒲原へ問おうとはしなかった。
断じて知らぬ存ぜぬで終わらせようとする頭ではない。
妹尾が今そうであったように、蒲原には蒲原に妹尾の空気が疎通しているわけで、あとは専ら待つだけで済む間柄なのだ。
彼女の時宜が満ちるまで、そっと待てば良い。通い慣れた通学路のように当たり前に。
幼少期から共に過ごしてきた蒲原と妹尾は、ある種、二人だけの透明を持っていた。
『佳織』
フウと蒲原の発露。
真剣な笑顔の蒲原が妹尾の待ちを開いた。
『佳織、麻雀部に入らないかー』
妹尾はパチクリと応える。
『麻雀部?』
『と言うか入れー』
『そっか…大会が近いんだっけ。部員が足りてないんだよね……』
だけど私は麻雀出来ないよ? と妹尾は惑うが、
『ワハハ』
『!?』
『これは何だろうなー』
蒲原はいつの間にか取り出した入部届を、しかも蒲原の筆跡で既に記入項目が埋められている用紙をチラつかせ、お構いなしとばかりに言い投げる。ただしそれはやはりどこまでも真率な笑顔で。
『問答無用!幼馴染権限だー!!』
『ぇえ!?』
『本気で嫌がらない限り逃げられないぞー。断りたくば私の屍を越えていけー』
─── 妹尾佳織はこうして、麻雀部への廊下を進んでいる。
「足引っ張らないかな……」
「いや寧ろ佳織は強い方かも知れないぞー」
「え、そう? どこが??」
「この前、私の家で練習を兼ねたカード麻雀やっただろー?」
「トランプみたいなやつ?」
「そう。あれで佳織がアガりとして成立させてた手は役満っていう役で、麻雀の中でも一番高い役なんだ。 初心者でいきなりとは驚いたぞー」
「へえ……」
「25,000点の30,000点返しのつもりでやったんだがなー、私がハコ割れでオーラスまでもたなかった……ワハハ」
「ハコ? オーラス?? よく分からないけど……私、反則も沢山してたみたいだし…」
「そりゃ初心者誰もが通る道だ。私も最初はよくやったー」
「難しいよね、麻雀」
「その分、楽しいぞ」
廊下を右に曲がると、蒲原が少し歩調を緩めた。
この廊下の奥々にある教室が、麻雀部の部室として使用されているらしい。
「けど結果的に佳織が入部をOKしてくれて助かったなー」
「ふふ。一週間は仮入部扱いだけどね。それに智美ちゃん、私が本気で嫌がらないって知ってたくせに」
「まあなー。だが万が一もあるだろう? 誘っただけで駄目だったら、最後のこれを使ってしまうところだったんだぞー?」
「これ?」
鞄の小口ポケットから財布を抜いた蒲原が、何やら小さな紙を取り出した。
「レシート?」
「違う違う。忘れたのか佳織ー」
妹尾の謎へ向けて、蒲原が指で挟んだ紙を躍らせる。
その紙は端々が擦り切れているような古い紙で、心ばかりの厚みがある。
中央にはクレヨンの色彩を滲み掲げた平仮名文字が書かれていた。
「─── あ!それ、”なんでもけん”!?」
妹尾の所思が過去を辿る。
それは、確か小学生になったばかりの紺碧の空。
妹尾佳織が蒲原智美の誕生日にプレゼントした小さな紙切れだった。
材質は画用紙。サイズは切符を二回りほど拡大させた長方形。
当時は切り取り線付きの連枚構成で、数は恐らく十枚前後であっただろうか。
幼少期ならではの完全ハンドメイドによって生み出されたプレゼントには、こう記されている。
『なん■もけん
─── ゆ■■■きげ■ ■■■■ ─── せのおか■り』
時間経過と共にいくつかの文字が潰れてしまっているが、蒲原の中でも、そして妹尾の中でも、その紙の効力が薄れることはない。
何せ、大切な幼馴染に渡し渡された誕生日プレゼントである。
現物がある以上は、言葉のままの意味と特典を兼ね備えた ”何でも券” だ。
「ワハハ。懐かしいだろう。実はまだ一枚残していたんだ。ボロボロでほとんど読めないけどなー」
「残ってたことにも驚きだけど、智美ちゃんがまだ持っててくれたことにもビックリ。十年くらい前のやつだよね。
…………んっと、 ”なんでもけん” と ”せのおかおり” 私の名前は何とか読めるけど、その間には何を書いてたんだっけ?」
「んー、それは私にも思い出せないんだワハハ。だが他のやつを大体何に使ったのかは記憶にあるぞー。佳織のおやつを横取りする時とか、無理矢理遊びに誘う時とか、宿題を写させろーとか、とにかく色々なことに使ったなー」
「ふふっ。ホントにね」
「けど、最後の一枚だけは残しとくかー、ってあの時から決めてはいたんだ。時期が来るまでなー」
「時期? そんなのあるの??」
「今はまだ少し早いからなー」
「しかも小学生の頃から考えて……?」
「ワハハ。我ながら天晴れだ。だから使わないで済んで本当助かった」
「…………。智美ちゃんがそんなに私に頼みたいことって……何?」
「ん? ああ」
蒲原は指で挟んだ ”なんでもけん” を鞄の小口へ戻しながら頷く。
「これは佳織にプロポーズする時に使う予定だ。ワハハ、最強の幼馴染権限だー」
「ぇ!?」
「さ、もう直ぐ部室に着くぞ佳織。ユミちんも来ている筈だー」
足を止めた妹尾は呆然と蒲原の背中を見送る。
数メートルの距離が広がった場所で、蒲原が振り返った。
「佳織ー」
「ま、待って。智美ちゃん」
小さく走って追い付く妹尾だが、まともに蒲原の顔が見れなくなってしまった。
口を開きかけては噤んだりと次を探しあぐねている。
「ワーハハ」
幼い頃から彼女の傍にある妹尾でも、たった一つ掴み切れない、軽そうで楽しそうで意味深げな蒲原の笑い声だった。
妹尾の頬が高揚する。
紙一重の違いが途轍もない振り幅となって妹尾を困らせた。
たまに蒲原はこんな風に妹尾の挙動をおかしくするのだ。
回数こそ頻繁ではないが、多くはないだけに、見せる垣間は絶大、威力の一つ一つが刻まれる。
─── 昔からそうだった。
瞼の裏側。
思い出の脳裏。
物心がついた時から、内気にあった妹尾。
近所のイジメっ子達からは恰好の標的で、泣かされることもままあった。
悲しい。辛い。苦しい。
しかし、妹尾が涙を流すと、必ずそこへ現れる人がいた。
蒲原智美。
カマボコのような口をした笑顔の天才だ。
蒲原は妹尾を守るように間に入り、それと同じ数だけ擦り傷をつくった。
子供の喧嘩とは言っても、強くコケれば血は出るし、痛いものは痛くて、怖いものは怖い。
が、だというのに、思い出の中の蒲原は
『ワハハ。 かおりがケガをしていないのなら ”くんしょう” だー』
と笑ったものばかりだ。
それを見た妹尾はやっぱり泣いてしまったりするのだけれど、何故か結局最後には笑顔になれて、よく二人で手を繋いで帰った。
ワハハという眩しい声が、いつも傍にあった。
今も、昔も、妹尾佳織は蒲原智美以上の笑顔に触れたことがない。
そして、さっき蒲原が見せた垣間の絶大は、今までの全てを超越してしまう ”ワハハ”
だった。
「冗談、」
「そ、そうだよね。智美ちゃんまた冗談でそんな言い方、……プロポーズなんて…」
「じゃないから、ちゃんと覚えておいてくれー」
「ふぇえっ!!?」
「あ。ユミちんだ」
言って、妹尾の挙動を更に泳がせただけの蒲原は、部室前に立つ加治木ゆみを見て足を早めた。
元より遠くはなかった距離が即座に縮まり、二人は話始める。
「ユミちん、今日は前から言ってた私の幼馴染を連れてきた。名前は妹尾佳織。学年は一つ下」
「ああ。彼女が蒲原の……」
加治木の視線が妹尾に流れ、会釈を示した。
妹尾も慌ててお辞儀で返す。
「麻雀経験はないけど、運の良さは誰にも負けないんだ。試しに昔ユミちんとやったカード麻雀をやってみたけど、役満しかアガらなかった」
「な……それは凄いな。私も手合わせ願いたいものだ」
「基本おっちょこちょいだけど努力家だぞー」
おずおずと上級生二人の近くまで来た妹尾の腕を蒲原が引っ張り寄せた。
蒲原は絡めた腕と逆側の手で妹尾を指す。
「ワハハ、私の自慢の幼馴染なんだ」
「い言い過ぎだよ智美ちゃん。恥ずかしい……」
「ふっ。仲が良いんだな」
息を抜いて表情を綻ばせた加治木が部室の扉を開けた。
「今日から一週間は学園規定の仮入部だったな。麻雀部が肌に合うようなら是非とも本入部を検討してくれ。蒲原もいつもより楽しそうだしな」
「は、はい」
「まずは牌に触れると良いだろう。 蒲原は卓の準備を。私は牌を準備しよう」
「了解。佳織はちょっと待っててくれー」
「うん」
「鞄を頼む。そこにロッカーがあるからなー」
「わっ!」
蒲原は鞄を放り投げて妹尾に渡すと、部屋奥の雀卓を求めて背を向けた。
「あれ…?」
キャッチした妹尾の足下にヒラリと一枚の紙が降り落ちる。
反射的に拾い上げた妹尾はドキリと脈を早めた。
それは先程に蒲原が見せていた、端々が擦り切れている古い紙、クレヨンと懐かしさが滲む
”なんでもけん” だった。
蒲原が鞄にしまっていた筈のそれは、先の衝撃で口が開き、妹尾の手平に身を移した。
「智美ちゃんたら……」
妹尾は雀卓を磨いてる蒲原を見る。
「あんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうよ」
そして、手の中にある ”なんでもけん” を慈しむように撫でた。
『なん■もけん ─── ゆ■■■きげ■ ■■■■ ─── せのおか■り』
「あ、けどここ……」
潰れている文字に触れる内、追憶の糸を手繰りよせた妹尾が、唯一読めていなかった
『ゆ■■■きげ■ ■■■■』 の部分を浮かび上げる。
「思い出した」
解読に成功したのに、しまった、と些少の苦笑いが零れていた。
「小さい頃の私、余計なこと書いちゃってた……」
小学生なりにリアルな ”券” を作ろうとして、書き添えた一節だったのだ。
保有者の蒲原が覚えていないのだから問題はないが、しかし、思い出してしまった妹尾は
───
「佳織、準備出来たぞー」
「わ、分かった。直ぐに行くね」
妹尾は自分の鞄からペンを取り出すと 『ゆ■■■きげ■ ■■■■』 の部分に二重線を引いた。
今になって書かなければ良かったと思う、『ゆうこうきげん いちねん』 と幼く書かれていた筈の箇所だった。
「何してたんだー?」
「……ちょっと大切なこと」
「?」
再び蒲原の鞄に戻った ”なんでもけん”
券には、真新しい一節が加わっていた。
『ゆ■■■きげ■ ■■■■』
『ゆうこうきげん ずっと』
そして、何も書かれていなかった裏面には
『ふつつかものですが宜しくお願いします。 妹尾佳織』
蒲原がこれを発見した時、思わずその口を閉じ、妹尾を抱き寄せるのだが ───
それはまた別の話である。