ボクはお嬢様に恋をする



十二月二十五日。
夜星が潜む深みの折、国広一は舞台袖から龍門渕透華を見ていた。
透華は舞台上の中心でスポットライトを浴びながら、このパーティーに招いていた客達への締めの挨拶を述べている。その姿は意気揚々にして威風堂々で、とても十代半ばの風格とは思えないが、目立つ事が大好きな彼女にはまさにうってつけの場であった。
一は生き生きとしている透華を見守りながら、静かに会場内を見回してみる。
龍門渕家主催のクリスマスパーティーが終わろうとする今、本日貸し切りとなっていた会場には、有名な著名人から学者、芸人からスポーツ選手まで様々な顔ぶれが一同に会す。
天井は高く、ステージは広大で、上を見上げれば豪壮なシャンデリア、また、端階段を昇れば外造りのバルコニーものぞめた。純面積に換算すると野球も楽しめる広さになるだろう。
中央やや後方にあるパーティションの一角、あそこには透華のアイデアである雀卓が完備され、つい先程まで、ビンゴ大会ならぬ麻雀大会が開かれていた。その大会は、数あるイベントプログラムの一環にしか過ぎなかったが、国民的人気競技への参加率は高く、賞品の特級さも際立って、大成功と言える盛り上がりで幕を下ろす。下手にボロ勝ちしては相手の顔を潰しかねないので、透華を初め、龍門渕高校麻雀部の面子は参加しなかったが。
今チラリと視界に入った窓の外、外縁で光を放っている針葉樹 ─── クリスマスツリーだって龍門渕家の特別仕様だと聞いている。一は決してその類に詳しい質ではないのだが、発光の限りを配下に従えたイルミネーションは、夜の黒を忘却させる存在で飾られていた。

一通り見渡した一は、まるで日本ではないようなその玲瓏具合に復々と苦笑した。
そしてステージ上の透華に意識を戻して焦点を束ねる。
映る透華の姿に、瞼が自然と伏せがちになった。
本日のパーティーだけを主眼として誂られたドレスを着た透華は普段よりも凛々しく見えて、例えスポットライト下でなくとも明を受動させる佇まいだ。気品と見栄えを併有するドレスはそのしなやかなスタイルに恐ろしい程馴染んでおり、美しく結われた金の髪は大人顔負けの光輝を放っている。
締めの挨拶という大役を任された理由は、主催者である透華の父による遊び心らしいが、この分だと余力を残したままで遂行出来ることだろう。

 「透華……様か」

透華様、という呼称が似合う一面を見て、一は嘯いた。
次には、意図して 「透華」 と、毎日の呼び方で彼女の名を述べてみる。これは無論、周囲の誰にも拾えない量のささやかな響きであった。
反射的に腕を押さえたのは、鎖の有無の確認だ。
このような席で付ける訳も無いのだが、盛大なパーティーに贅沢な情景、舌に加える透華への敬称、こういったモノに囲まれた時、一には心付いてしまうことがある。

 「ボクは大変な人を好きになったよね……」

透華は友達で家族、何より純粋に ─── 名家のお嬢様。
思わずにはいられなくて、考えずにもいられない。
立場や家柄、心や性別。出会えただけで恵まれていると知りながら、壁とそびえるものの多くも揃っているような気がした。得意の手品でも覆しようがなく、且つ、タネも仕掛けもない、近いような遠いような遠近感。

一は端階段を、バルコニーを見上げた。
このパーティーが終わったら、一はそこで透華と会う約束をしている。
敬語を外したいので二人切りになれる場所を選んだ。
だが、会う、とは言っても、この後に叔父との食事が控えている透華には時間が無く、僅か数分を落ち合うだけの話だ。
何分話せるかは分からない。そしてそれはどう転んでも短い。
しかし、二人で共にする二十五日、クリスマス。
この夜を口実として一は確かめたい。
─── 国広一は龍門渕透華にどこまで近付けるのだろう。
気持ちや度胸だけで打ち明けられる人ではないと弁えてはいるのだけれど。
ほんの少しで良いから。
それが知りたい。




一がバルコニーへ踏み出すと、ツリーをバックライトにした雪がこんこんと降り始めた。
さっきまで止んでいたのに、と一は足元の白を一瞥して空を仰ぐ。「コートを着てくれば良かったかな。でも意外に寒くはないかも」
一はスーツだけの格好であったが、生地が防寒に優れている為か、映る白景ほどの寒さは感じない。これで耐久性や動き易さまでも備えているのだから、さすがは透華が見立ててくれた服である。サイズも一にぴったりで、付属していた女性用のネクタイも一点モノであることが窺えた。
以前、このスーツを透華の前で試着した時には、彼女が急にドギマギとして視線を逸らしたので、「ボクの為にわざわざ用意してくれたのに、あまり似合ってなかったんだろうな…」 と一は残念に思っている。今日は姿を見せないが、彼女の執事・ハギヨシならば、こういった服装も完璧に着こなして見せるだろうに。
その透華専属の執事・萩原ことハギヨシが、今回パーティーにも関わらず彼女の傍を離れているのは、派手な席は嫌いだが退屈でふてくされてしまっている天江衣に付く任務を担ったからだった。
寂しそうにしている衣を麻雀部一同が放っておける筈がなく、当初の予定ではメイド所属の一がそのままスライドして衣と遊ぼうとしていたのだが、シフト調整をしていた際、ふいにハギヨシがこんな提案を打ち出した。
『折角のクリスマスです。たまには屋敷の外で透華お嬢様と二人切りになってみては?』 何を言われているのか、判断が遅延する一。 『きっとお嬢様もお喜びになられます』 ハギヨシは気にせずに、物腰柔らかく続けた。 『終わりの頃なら旦那様の目も届きません』

 「萩原さんには敵わないなあ……」
 「はじめっ」

一がスーツの肩に広がる雪を払っていると、白濁吐息の名残に乗せて、通り良い声が送られた。
後方から背筋の伸びた影。独特のシルエット。
透華だ。
念の為、一は影が自分の揺れと彼女との二つだけであると確認して台詞を選ぶ。

 「お疲れ様、透華」

正真正銘の二人切り。
よし、と後ろへ向き直った一であるが、見えた透華の姿に驚いて即座に言い重ねた。

 「透華、コートは!? ボクと違ってドレスだけの格好なんだから風邪ひくよ!?」

透華はどこか満足気に腕を組む。

 「控え室に戻る時間を惜しんだだけのことですわ。不都合はありません」
 「ボクが困るよ! 」

透華の返答に被せながら、一は自らのスーツの留め具を外した。

 「えっと……ボクのやつじゃ少し小さいかも知れないけど、せめて上着くらいは羽織って」
 「でもそれじゃ はじめが」
 「ボクはいいからホラッ」

上着を脱いだ一が透華の肩に掛ける。
気休め程度の暖にしかならないだろうが、何も無いよりは助けになってくれるだろう。
それに、透華は時間を ”惜しんだ” と言ったのだ。
耳聡くも聞こえてしまった以上は喜色が流れ、余計に風邪なんて引かせる訳にはいかない。

 「……あ、ありがとう御座います」
 「ドレスが隠れちゃうのは惜しい気もするけどねー」
 「なっ……!」
 「周りの人も沢山透華のこと見てたよね。見慣れてる筈のボクだって似合ってると思……というより、綺麗だと思うよ」
 「ととと、当然ですわ!! 龍門渕に恥じない振る舞いをしつつも目立ってこそのわたくしです!」

高笑いをする透華。
髪をいじりながらのそれは、彼女の最大の照れ隠しだ。
一はこれを侵さぬよう、今日のパーティーを平静に振り返る。

 「目立ってたよ。充分過ぎるくらいかもね」

彼女付きとして隣に立っていた一は、龍門渕透華へ向けられる四方山な視線を感じ取っていた。
嫉妬に羨望、利益、欲、敵味方、上下に左右、何もこのパーティーに限ったことではないが、表舞台に立った透華は、いつも上流税とでも言うべき念に晒される羽目になる。快いと思えるものは数えるくらいで、透華が ”目立ちたがり屋” という器量を得ていなければ、痛心に耐えなかったことだろう。
そして、そんな透華に向けられる多様な感情の中で、一が最も危惧を抱く視線は、熱源を含むもの─── つまり、自分と同種のそれだ。
年上の者から同年代・年下の者まで、同じ瞳でのみ通じる底心。
あ、と交わった時、一がこれまでの人生で培ってきた世間が見極めるのだった。
その事理で透華を掴むべきは、あちら側の人間だ。
絵面だって容易く想像出来る。
ほら、こんなに鮮やかに輝くように。
自分には何も無い。
富も、名声も、力も。
名家の繋がりを確とする者ならば、生まれながらにして彼女への想いを許される人が、恐らくは。

 「どうしましたの はじめ? 腕なんか押さえたりして」
 「……ううん。ちょっとね。雪が気になっただけだよ」

一は払拭するように肩を竦めた。

 「透華、ここじゃ話し声が漏れるかも知れないからあっちへ行こうか」
 「そうですわね」

手を差し出した一がバルコニーの先端へと透華をエスコートする。

 「透華は今日どのくらい時間あるの? ボクはここまでしか付けないから詳しいスケジュールは教えて貰えなかったんだ」
 「……この後に車で移動があるので、十分ほどでしょうか。遅刻するとお父様がうるさいので」
 「うわ。年末恒例の過密スケジュールだね。ボクだったら倒れちゃいそうだよ」

薄着が祟ったのか、触れている透華の手は冷たい。
一は数歩進んだところで思い切りを発し、導きの為にあった手をそのまま絡めた。
二人の頬には寒さ以外の朱が宿る。

 「忙しいのは何もわたくしだけではありませんわ。去年も今年も皆良くやってくれています。特にはじめはわたくしとの行動も多くなりますから、時間も取られるでしょう。このパーティーでも本当によくやってくれましたわ」
 「ほとんど立ってただけだけどね」
 「謙遜ですわね。案外それが難しかったりしますのよ? 一つの動作、立ち振る舞いからその者のレベルは知れます。 他にはグラス交換等があったと思いますが、そのさり気ないタイミングも完璧。きっとあの場にいた人間も、はじめに一目置いたに違いありません。わたくしも鼻が高いですわ」
 「透華にそう言ってもらえると嬉しいよ。下手をすると萩原さんに顔向けが出来なくなるところだもんね。………………で、さ。こういうパーティーに同席させて貰う度に思うんだけど」
 「何ですの?」
 「透華、男の人に人気あるよね。 挨拶とかがあるのはボクにも分かるんだけど、それ以上に多過ぎると言うか……。ダンスの誘いも曲が変わる度に別の人に誘われて」
 「ああ、それは当然わたくしの魅力もあるのでしょうが、」

フフンと透華が笑う。

 「正直あれは社交辞令に近いものですわ。ダンスへの誘いもクリスマスだからという一種のオプションでしょう。他意があるのなら、それはいずれも ”龍門渕” に。わたくしにではありません」
 「社交辞令……」

一の視認出来た範囲だけでも、社交辞令以上の色が混じっていたあの中。
透華は、本気には本気で応える瀟洒(しょうや)な性格だから、その色が見えていないということは、単純に可能性そのものを排除しているだけだ。
自身の魅力を認めているのに、そこへ考えが及ばないのは不思議で、だがそれはやはり、考える必要さえない、約束された相手、がいる故の盲目なのだろうか。

 「”龍門渕” ってそれだけ大きいんだね」

一の手に少しばかりの汗が滲む。
鎖のない腕が痛むように疼いた。
訊きたいのに訊きたくない。訊きたい、違う ─── 訊くんだ。
「ボクは大変な人を好きになった」 覚悟は決まっているのだから、対峙するべき相手がいるのなら知っていたいと唱える。
聖なる夜を口実に選んでしまったのは気が引けたが、こんな雰囲気でも借りなければ踏み込めやしない奥の奥。
富も名声も力も無いのなら、それらを圧倒するだけの野心を据えろ。

 「いつかはわたくしも龍門渕を背負って立つ身。ですが、一人では到底不可能です。だからそこには、はじめや衣、純にともき、ハギヨシに他従業員一同、皆がいて欲しいと願いますわ」
 「そう……だね。ボクもそう思う」

一は目を流し微笑むと、

 「これからも透華と一緒にいたいよ」

野心の細片を溶かすを告げ、

 「…………でもね、透華」

手は繋げたまま、

 「少しだけ、本当に少しだけ」

触れるか触れないかの接触で

 「ボクの目指す位置は違うんだ」

透華を抱いた。

 「ゴメン透華。変なことを訊くよ」

薄く積もり始めた足元の雪が、一の歩深を表すように妙に大きな音を響かせる。

 「プライベートな話だから、答えられないのならそれでいいから」

そして直ぐに離れてから透華と顔を見合わせた。

 「は、じめ…?!」

束の間を利用する一が、身体全体の勇気を己の軸へ向けて奮い立たせる。

 「透華って、好きな人とか」
 「なっ…な!?」
 「子供の頃から決まってる許婚とかはいる……?」

理解を置き去りにするしかない透華に一は言う。

 「ボクとしては」

それはごく自然に溢れ出たものだった。

 「いないでいてくれると嬉しいんだけどね」

透華は呆然と驚きの間にいて、肌を上気させていた。
一は待つ。ゆっくりと。
透華がこちらの問いを解すまで。何かしらの答えをくれるまで。
彼女のことを遠くに感じないように、手を握り続けながら。

 「い、許婚なんてものはいませんっ。自分の相手は自分で決めるもの、時代錯誤も甚だしいですわ!!」

いない。
そっか、いないんだ。
一は我知らず溜めていた深い息を吐く。
諦めるべくは端から無かったものの、背中を押す解放に胸が焦がれる。

 「好きな人は……い」

透華の言葉を緩みかける頬で聞いていた一であるが、

 「!! ─── 待って。透華」

その時、数メートル背後に何者かの気配を勘取った。

 「残念だけど……時間切れかな」
 「……え」

苦笑の後に手を離した一が姿勢を整える。
自心を引き締めることも忘れない。

 「あの人、これから透華を送ってくれる運転手さんだよね。十分以上経っちゃったから、きっと痺れを切らして探しに来たんだよ」

一の指差す後ろには、幾らか遠目にバルコニーの扉を開けようとする人影がある。
人影が扉を開け放つと、透華を視野に収め承服。まるで宝を発見したかのような顔をする。
そして、そのまま扉を閉め、目配せと一礼を残して姿を消した。

 「確かに……時間ですわ」
 「名残惜しいけど、こればっかりは延ばせないね。運転手さんにも責任があるだろうし」

運転手の背を見届けた一は嬉しいように強いように嘆息した。
先の運転手の動きは、いずれも敬意が感じられる所作だった。
どれだけ急いでいても、透華の時間を壊そうとはしない静かで優しい敬意。
一の従者としての側面が同定する。
あれは従業員教育なんかで成り立つ洗練ではない。伴う心に従っただけの、ありのままの秀麗だ。
透華は、彼女だけだとしても、お嬢様であったとしても、深く愛され大切に想われている。
一は、「仕事も頑張ろう。当たり前だけれど」 と、今はもう見えなくなった運転手に頭(こうべ)を垂れた。

 「忙しいのに長々とごめんね。ありがとう透華。─── それと」
 「それと?」
 「最後にこれ。遅くなったけど」

緩やかに跪いた一が宙へ伸ばした指をパチンと弾く。

 「……!?」

すると、押さえ加減に破裂した空気音が鳴り、一の手には小振りながらも典雅に纏められた花束が現れていた。

 「透華へメリークリスマス」

フワと透華に花束を渡らせる。

 「はじめっ。こ、これは…………手品、ですの?」
 「今日は鎖が外されているからね。もう人前じゃ滅多に使わなくなってたんだけど、透華を驚かせたくて仕込んでたんだ」

透華の目が映す生花はどれも一が彼女から好きだと耳にしたことがあるものばかり。
種類別の花同士が喧嘩をすることもなく、透き通るような色彩を完成させている。

 「驚きましたわ。ありがとう御座います」

一は雪に漂う花弁の香りを取り込みながら立ち上がり、透華を下から見上げた。
この身長差だってどこかもどかしい心象を一に覚えさせたが、眼前に広がる ”花” と ”華” の絢爛さに、こんな些末なことはどうでも良いと切り替えた。
自分が追い求めるものは、物差しを無能とする程の巨大な龍の尾。

 「実は今……ボクには透華に伝えたい気持ちがあるんだ」

一の面差しが、穏やかに淡く、そして不安定な深浅を孕んだ。
その瞬間を捉えていた透華の瞳孔がまるで光の刺激を受けた時のように小さくなる。
何が眩しかったのか、思惟を進める一に知ることは出来ない。

 「そしてそれはこれかもずっと持ち続ていると思う。だけどボクはまだ付き人としても未熟だし、透華に甘えているところがあって……」

自らの腕を掴んで一は頷いた。

 「だから、ボクが鎖をちゃんと卒業して、仕事も全部一人前になった時、透華に伝えるよ」
 「はじめ……」
 「色んな人に怒られちゃうんだろうけど、透華が買ってくれたのは正攻法(まっすぐ)なボクだから。最後まで正攻法にいこうと思うんだ」

髪の裾を再度激しく指に巻き付け始めた透華。
その乱れに触れようと、口端を上げた一が少し背伸びをする。
が、途端に彼女と交差していた視線は落ち、次にはくるりと背を向けられてしまった。

 「……さ、さっき中断してしまった話、ですけれど」
 「え?」
 「許婚や、好き、な人の話ですわっ」
 「あ……」
 「わっわたくしが、好きな人はいるのかも知れませんし、いないのかも知れません。─── 近過ぎるせいか……わたくしにもよく分かりませんの」

落ちていた透華の顔が上がる。
指に絡んでいた髪束が解け、一の瞳の中で金糸が揺れた。

 「それって」
 「つまり!」

皆まで言わせない透華が、再び反転し、勢いよく一を指差した。

 「いいですかはじめ!! わたくしに付ける専属人は今後も含めて はじめ以外を考えておりません。ハギヨシは屋敷の主に仕える執事ですから、本来はわたくし専属ではありませんし…………っその、ですから、早く一人前になってくれるとありがたいですわ!!」
 「…………」

一の、耐えるように抜いた溜息が 「透華」 という形を作る。
返答に困った為ではなく、彼女の名前を、一は今一度口にしたかった。

 「そ、それじゃあ、時間も限界のようですので、わたくしは行きますわっ」
 「透華」

固い足取りでバルコニーの出入り口へ向かう透華を、一の、耐え切れなかった腕が閉じ込めた。

 「……!」

硬直してしまった彼女を気遣ってやれないまま、一は言う。

 「周りから何か言われても、ボクは絶対に自分を曲げないつもりだよ」
 「………はい」
 「必ず……伝えるから」

時間を掛けて頷いた透華が一から離れる。
「行きます」 と目で言われて、一も引き止めたことを謝する瞬きをする。
「いいえ」と透華。
そして一は素早く透華の横を通り抜け、バルコニーの扉を開いた。
つい癖で頭を下げて透華を待っていると。

 「別に…わたくしは今のはじめでも構いませんのに……」
 「?」

扉を潜る際に透華が何か呟いた。
一の耳に届かなかった言葉は、透華の微笑に被せられて消える。

 「わたくしの方からまだ言っておりませんでした。メリークリスマスですわ、はじめ。また明日も来年もその次も宜しくお願い致します」




透華を見送った一は、数秒前に聞き逃した彼女の台詞を拾い上げようと鼓膜の動作に訴え掛けた。
しかし、霧散してしまった音は蘇らず、一に沈黙だけを寄越す。
ただ、透華の表情から描いて、充実した何かであったのは違いなさそうだ。

 「好きだよ……透華」

二人で共にした二十五日、クリスマス。
この夜を口実として一は確かた。
遠いような、近いような遠近感。
─── 国広一は龍門渕透華にどこまで近付けるのだろう。
答えは全て自分の腕の中に出ていた。


















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