心技体・猫



朧気な月明かりが射す部室の一角で、池田華菜の視界より福路美穂子が消えた。
見失ったのではない。左隣に肩を並べていた姿が、忽然とその存在を無くしたのだ。
つい先程まで福路が仕上げていた風越レギュラーのメンバー表がヒラリと床を滑る。

 「キャプテ……? ───!!」

何事かと反応した池田が慮外の場と遭遇する。
消えたと感じた福路は、池田の半歩後ろでしゃがみ込んでいた。

 「ごめんね華菜。ちょっと……気分が……」
 「大丈夫ですか!?」

倒れる寸前の身体を支えようと膝をついた池田の下に、事態の深刻さが通達された。
苦しげに歪められた福路の顔からは汗が滲出し、急変の蒼白、動けず触れた体温は著しい発熱を訴えていた。
素人目に見ても療養の早急性が判じられる。
池田は福路の体重を一時背半分で預かった。
彼女のフラつく足元は地面と共有して突っ張り運ぶ。
部室隅には卓待ち用の長椅子が置かれているので、それを即席のベッドとして利用する算段だ。
体格で勝る福路が軽い筈もないが、火事場と断定する池田の総身は屈強な活動を見せた。

 「キャプテン、ここで横になっていて下さい」

池田は寝かせた福路の額温度を手で予想する。
緊急事態でなければ照れもあっただろう立ち居、しかし家では四姉妹の長女を担っている池田である、病人への対応には淀みがない。

 「ハンカチ濡らしてきます。あと毛布と」

福路の額より疎通した高熱に池田の足が動く。
水道は手洗い場、毛布は仮眠室に、可能なら薬も持ち帰りたい。

 「大したことは…ないと…思うけど……」
 「起きちゃ駄目ですよ!? キャプテンの熱、たぶん高いですから」
 「……少し休んだらきっと良くなるわ。夜も更けてきているから、遅くなる前に華菜は帰って?今日は色々と手伝わせてしまったし疲れているでしょう」
 「あたしは自主的に残っただけですよ。今はあたしなんかよりキャプテンが早く家に帰らないと……!コーチに事情を話して車を出してもらいますから、それまで寝ていて下さい」
 「うつしてしまったら悪いわ」
 「あたし健康だけが取り柄ですし! こんな状態のキャプテンを置いて帰る方が、あたしの身体に悪影響ですっ」
 「華菜……。…………ありがとう」
 「行って来ます。 ─── っと?」

ハンカチ片手に駆け出した池田の爪先に、主を失っていた風越レギュラーのメンバー表が当たった。
端麗な筆跡がある。本日の練習後に池田が部室掃除全面を請負い、別途福路が居残って完成させたばかりのものだ。
池田は床からそれを拾い上げ、倒れ目を閉じている福路を映して思い切り握り込んだ。
部室を出る。
動悸のようなものを芽吹かせながら、池田はそろりと引き戸を閉めた。




夜の学校は薄暗い。最終下校時刻を過ぎると、必要外の電灯は全て落とされるのだ。
空には弓型の月が浮かんでいる。廊下は月光の影響を受けて銀紺色に飾られていた。
綺麗でいて寂しい、そんな道を歩く道すがら、池田は指間で皺になっていたメンバー表を開いた。
足が止まる。このメンバー表が、ただレギュラー選手の名を連ねただけのものなら、池田は歯噛みなどしなかった。
書面の持つ意味が、試合に正式採用されるエントリー用紙でなかったならば。
試合の日程が、明日を示していなかったならば。

 「あの熱じゃキャプテンは出られない……」

特異な作戦を持たない場合は、校内ランキングの上位五名と補欠数人が試合に抜擢される。
不動に固定されている面子となれば、校内ランキング一位と二位、前代の頃からチームの一翼を担ってきた福路美穂子と池田華菜の二名である。
一番槍の切り込みに堅守も併せた攻撃手と、大尾に覇を呼び込む高打攻撃手は、風越の勝利式として稼働してきた。
それが明日には機能を失うことになる。

 「……後で書き直そう」

池田がまた、握り込んだ。
エントリー用紙が示す試合日程は明日。
それは奇しくも ─── 春季大会・団体戦初戦。
紛れもない 「公式戦」 だった。




物静かな部室には福路の浅く乱れた呼吸が繰り返される。
湿らせたハンカチを福路の額に乗せ、毛布をかけた池田は近場の椅子に座った。
自動販売機で購入したペットボトルタイプの水を枕元に置く。
薬の獲得は叶わなかった。この時間帯、保健室の鍵は施錠されていて、担当員も勤務を終えていた。
学内会議へ参加しなければならない久保貴子 ─── コーチが迎えに来てくれるまでには、まだ時間が掛かる。こればかりは池田とて無理を言えない。
眠る福路を隣に、池田は新しい予備のエントリー用紙を広げてペンを向けた。
福路がいた先鋒欄に補欠選手の名を記し、残りも書き入れる。
思いの他スラスラと走ってくれた筆加減に池田はホと肩の力を抜いた。
不幸中の幸いか、握り込んだ力の割には動じていないらしい。
風越女子麻雀部は、レギュラー一人の欠員で死活に陥るような層の薄さにないのだ。
部員八十名の看板は伊達でなく、校内ランキング一桁の者ならば、皆が相応の牙を研いでいる。
ただ如何せん、やはり福路美穂子を欠いた面子に戦力ダウンは否めず、対戦校も秋より成績を伸ばしてきた要注意校、エースの不在は苦戦を呼ぶ狼煙と固めておくべきだ。

 「はあ……」

池田は完成したエントリー用紙を蛍光灯に透かし見て、しじまの二酸化炭素を漏らした。
奮闘を余儀なくされたところで勝ち抜ける自信は削がれない。けれど、福路の名が無いエントリー用紙には、機軸を拝されたような、仕落のような雑のような、とにかく風変わりな心地がする。
あるべき位置にあるものが無く、闘志も上手く操作してやれない。
公式戦の威力か、心身には莫大な寂寥も施された。

 「……すみません」

練習試合では得られない胸騒ぎ、リアルとの接見 ─── 福路美穂子の影響力。
だが、それは彼女にいかに頼り切りであったのかを裏付ける情調のようだ。
池田の謝罪はそこに投げられていた。
福路というキャプテンは、往々にしてチーム全体の成長を優先し、肝心の自分を省みないところが見られる。が、選手としての基本中の基本、自己管理を軽んじるような緩さは有していないと池田は見知っている。まさか、今日倒れるに至るまで、身体が発していただろう黄信号に気付けぬ人ではあるまい。

合点を探し出した池田の思考に鉛色の陰りが差す。
公式戦。極限まで高まろうとしていた部内練習の緊張感。それを緩和してくれていたのは誰だ。牌を迷わせない環境を作り上げてくれていたのは。
二番手の自分は何をしていのだろう。自分は、彼女の事務作業を手伝った程度で満足していたのではなかったか。
池田は喉を詰めて悔悟に身を捩じらせた。
部に存在するだけで意義があると感ずる、キャプテン福路美穂子。そんな福路を、皆が、精神・力量の全域から求めていた。
福路の次席に役を置く池田も同じ口で彼女を頼り ─── これが福路の立ち続けなければならなかった事由と悟る。
どれだけ屈強な柱とて、支えるものがなければ……

 「……倒れて当然だし」

池田は眩しい視線を送って福路の臍下をポンポンと叩いた。
しばし感謝を込めて繰り返す。
言わずもがな毛布上からでは伝わらない弱さ、しかし、期せずして福路の咳き込みが入った。

 「っん……。?……華菜??」
 「!?」

福路の目が開かれ、池田はすかさず手を離した。
狼狽えた部分は意味のない体操で押さえ潰す。

 「……私、倒れ、て…」
 「まっまままだ寝ていて下さいキャプテン。コーチは会議に出席しなければいけないそうなので、それが終わったら迎えに」

半身を起き上がらせた福路に池田が水入りのペットボトルを渡す。
福路は目礼してから水分を含んだ。
と、動きを持った時、かろうじて福路の額上に留まっていたハンカチが重力に負けて落下する。
ハンカチ・毛布・真新しいミネラルウォーターをそれぞれ認めた福路が、最後に池田をじっと見詰めた。

 「これ…華菜が……用意してくれたのよね?」

池田は顔色の悪い福路を案じながらも、明るく頷いた。

 「こんな時間まで付き添いまで。……迷惑を掛けたわ」
 「とんでもありません。用意って言っても、ハンカチは自分のですし毛布も合宿用の物、水も自販機なので寄せ集めですよ。他には何もしてませんし」
 「華菜、私を心配してくれてたでしょ?」

意味深に自らの臍下を触った福路に、池田はビシッと硬い効果音のようなものを轟かせた。

 「い!? いや、そ、……! キャプテン起きて!?」

池田が悪さもない行動を弁明しようと早口に言う。
福路の意識がない間にとった挙動だからか、心はまるで悪戯を発見された幼子のようだ。

 「起きてはいなかったのよ? ただ、とても気持ちが良かったから覚えてたみたい」

お返しとばかりに、福路が池田の行動を頬に真似た。
池田は極上の感触に猫声を出して喜ぶが、福路の尋常ではない手の熱さで我に返った。
後ろ髪を引かれる思いで感情を練り直す。
彼女には一分でも多く身体を休めて欲しいのだ。
睡眠を勧めようとした池田は、しかし福路の瞳が下方へ向いたことに気を取られた。

 「……華菜。明日の試合のことなんだけど」
 「ああ…これ、大丈夫ですよ!」

福路の面差しに熱外の苦悶が列し、理解した池田はその元凶を自分の膝元からすくい上げた。
書き直されたエントリーシートに福路の長い溜息が乗じる。
池田は直感で福路のそれを解した。
点数引継制の団体戦は先手必勝があって初めて後続を自由にする。火力低下が導く流れ、第一位のエースを使命としながら、チームの痛手となったことが彼女を苛んでいるのだ。
身体と談義したところで、明日の試合に出場することはままならない。

 「負けたら終わりのトーナメント戦、相手は県下で最も勢いのある高校……こんな大切な試合の前に体調を崩してしまうなんて……私はキャプテンとして」

痛ましい声だった。
他人にとことん優しく、自己には厳しい彼女のこと、次に続く言葉は己を叱責するものとなる。
─── 私はキャプテンとして失格ね。
散々と自分達を優先してくれた人に、池田はそんな台詞を言わせたくはない。
この人が 「キャプテン」 として不行届きなら、地上の如何なる者であれ、そうは認められないと池田は大真面目に考えている。

 「安心して下さい!!」

話を中断するように池田が大声を響かせた。
病人を前に不適切な音量であったと慌ててボリュームを抑えたが、取り下げようとは思わない。

 「キャプテンの分まで、あたしが勝ちますし!」

福路の悲哀を、池田は消し去りたかった。
こんな時くらい頼って欲しいと告げたいが、甘えてきた身分で、どの口がそれを語れよう。
意中で窮した思いは凡庸な言葉に凝縮するより他にない。

 「華菜に…私の分まで……負担をッ」

福路の上体が揺れたのは、その時だった。
驚いた池田は瞬時、腕に抱いて持する。
汗が滴り落ちた。

 「! キャプテン本当にもう休んで下さい。 熱が上がってきているのかも」

熱せられた体躯をゆっくりと寝かせて、池田は毛布を寄せた。

 「……ごめん、なさい」

上目遣いに瞼を重くしながら搾り出された福路の詫言が、現今にも、明日にも、全てに謝っているような音相を成す。
池田は上書きするように短く言った。

 「負担なんてありません」

閉じられゆく福路のまなじり。

 「試合、勝って報告しますから」
 「…………」

福路の瞼が下りる。
限界だった体力が回復を望むのか、寝息はすぐさま広がった。




程なくして福路の傍を離れた池田は、片付けてあった牌一式を棚から取り出した。
部室中央の卓に手積みし、たまたま指に取った七筒をツモの要領で卓上に打つ。
少々過激な打ち付けは、不甲斐ない自分への叱咤だった。

 「……駄目だなぁ、あたし」

福路は寝入る前の最後まで、我が身を責めるような哀しい顔をしていた。
彼女の明日を安心させるだけの地盤を池田は築けていなかった。

 「でも、気付いた」

池田は物理的にしか支えられない自分の腕を睨んだ。
毎日世話になってばかりの頼りない後輩、だがそれでも、この腕は風越の二番手であったから、彼女が部員全員を支えてくれているのなら、その ”キャプテン本人” を支えるのは自分であると信じたい。
変わり始めた視野がある。
これこそが本当に近付くという事なのかも知れない、と池田は思った。


















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