自分は牌に愛されているのだと、とあるカツ丼好きなプロが冗談混じりに話して笑った。
その時はよく分からないまま曖昧に頷いて見せたのだけど。
きっと ─── この為だった。



絶対確信領域・嶺上で笑え!



宮永咲は夢を見ていた。
東京の地に足を付けた初日、移動疲れと共にやってきた浅い眠りが脳裏から引き出して見せたのは、鮮やかな夕暮れを浴びている原村和と自分自身。
風になびく和の桃色の髪と暮れゆく茜のコントラストは、夢という朧気なハンデを負っても尚、煌びやかだった。

『麻雀を通してならお姉ちゃんと話せる気がする!』

咲はぼんやりとした映像を見ながら、夢がどのシーンを描こうとしているのかを把握した。
これはほんの数週間前の出来事。
良かれと思ってついやってしまった和了放棄、国士無双崩しがある。
そんなバレバレの手加減に和を激昂させた後の出来事だ。
得意のプラスマイナスゼロも、はたまた、余計な気遣いも何も生まなかった。
馬鹿だったと思う。
咲は和に嫌な役をさせてしまったことを悔い改めたが、その反省によってきちんと見えたものもある。
夢がこのままあの日をなぞるのであれば、最後に二人は「一緒に全国に行こう」と指を結び、約束の時間をつくるのだろう。

 (私達、本当に全国へ来れたんだ…)

咲は意識の遠くで感慨深げに呟いた。
夢心地の中で漏れた溜息は、二人の約束が現実として果たされた至福を帯びて吐き出される。
実際に過ぎた時間はそれ程でも無い筈なのに、約束自体が懐かしいもののような暖かさを纏っているのは、咲にとっての和との時間が取り分け濃密であったからに他ならない。
出会って、怒られて、悩んで、誓って、時には泣かせて、でも笑い合えて。
色々あった。本当に。
そして、とても楽しく輝いていた。
活発な性格ではない咲はこれだけの短期間に誰かと感情を交えたことがなく、また、これだけ誰か一人を心に置いた記憶がない。
同級生である片岡優希・麻雀部部長である竹井久・先輩である染谷まこ・中学から知る須賀京太郎、それぞれが優劣なく大切だと思うが、原村和だけは何か別の色感として咲に華をつけていた。
中でも、彼女の少し照れたような顔や、笑顔というものは更なる開花を呼ぶらしく、咲自身をも嬉しくさせた。
和が特別とある理由は今の咲には見い出せてはいないが、この幸せが長く、可能ならばずっと続けば良いと思っていた。

『お姉さんはインターハイに出てくるの?』
『たぶん…優勝候補だって本にも出てた』
『……!まさか……!宮永さんのお姉さん名前は…』
『 ”照” っていうの』

夢が流れる。
咲は和に向かって、自分が抱える無二の願い、姉・宮永照に関する志を語った。
姉はやはり有名であるらしく、和の驚いたような声に咲は苦笑した。

『あなたにも色々あるんですね…』
『原村さんも?』

そう、確かこの後に二人は約束を結ぶのだ。
咲はその時を見ようと淡い映像に目を細め、身を委ねようとする ─── が。

 (あなたに ”も” …?)

夢を見ていた咲本人がその流れに抑止を掛ける。
和の映像と限りなく遅く芽生えた疑問が重なっていた。
そう言えば、自分は彼女の「理由」を明確には知らない。
何かがあるという事を知りつつ、知らないままでいたのだと気付いた瞬間、何故か咲は急激な胸騒ぎを覚えた。

 (和ちゃんはどうしてあんなに必死で全国に…?)

咲はこの数日間を思い出す。
全国への出場が決まった後、和は優勝という言葉をよく口にしていた。
決まる前からも耳にしていたそれは、この数日でより顕著になったような気がする。
出場するからには当然…?
確かにそれもそう。部長である竹井久も繰り返しそう言っていた。
だが、こうしてゆっくりと思い返してみれば、和が発していた「優勝」の二文字は、他の皆とは一線を引いた切実な意思が隠されていたように思える。
放たれる言葉の数々は、時折、過剰なまでに強かった。
頂点を目指していると表現するよりも、それは渇望に近くて。
肩肘を張り続けていて。
まるで、「優勝」、必ずそうであらねばならないかのように。

 (どうしてなんだろう?)

咲は夢の中の和を見る。
じわりと広がる不安を制して、小さく彼女の名を呼んだ。









 「和…ちゃん」
 「? 咲さん?」

原村和は、自分の膝の上で眠る宮永咲に名を呼ばれ、静かに様子を窺った。

 (寝言、ですか…)

咲の髪を優しく梳きながら和が微笑む。
夢の中に自分が出ているのだろうかと考えて、少し気恥ずかしい。
そしてもう一度、和が咲の頭を撫でた時。

 「ん。あれ…??和、ちゃん…?」
 「あ…すみません。起こしてしまいましたか?」
 「えっと、ここ…?」
 「東京の宿泊施設ですよ。到着して直ぐに咲さんが眠ってしまわれたので」

” ここ ” に、と和が下に向けて指を差した。
和を下から見上げる形となっていた咲はワンテンポ遅れて状況を理解し、まさしく「跳ね起きる」 という言葉をそのまま体現する。
和はその様子にクスクスと温顔を滲ませた。

 「ご、ゴメンね!私全然覚えてなくって!!」
 「移動で疲れていたみたいですし、問題ありませんよ」
 「それは和ちゃんも同じなのに…私ってば本当にもう。どうりで寝心地が良い訳だよ」
 「その…寝心地、良かったですか?」
 「うん!何かこう落ち着くって言うか安心って言うか ─── あ!夢にね和ちゃんも出てきたんだ。内容はね、」

会話の勢いからか、咲は和の手を取った。
自分との夢について子供のように嬉しそうに話す咲に対し、和は赤と進む顔を押さえ切れない。
告げられた内容は、あの夕暮れ下の約束の日。
それは和にとっても決して色褪せることのない一ページであったから、同じような気持ちを咲が持っていてくれたことをとても喜ばしく聞いていた。

 「でね。私、夢の中で思ったんだ」

しかし、その柔らかくあった所思も、咲から投じられようとする問いにより小幅の曇りが落ちる。

 「そう言えば私は知らないなって、起きたら和ちゃんに聞いてみようって」
 「私が全国優勝にこだわる理由ですか…」
 「うん。私は麻雀を通してお姉ちゃんと話すことだけど、和ちゃんは? 普通に優勝したいのとは少し違うような気がして」
 「…それは」

俯いた和の胸中を、優勝へのこだわりにして咲への回答となるものが過ぎる。
確か、車の中だった。
どこか寂しい気配。父と自分と。

 (私は…)

再生される追憶に和の瞳が揺れる。

『麻雀?東京の進学校を蹴ってまで続けることがそれか』
『中学で一人友達ができたんです。高校でも…』

和が硬く目を瞑る。

 (宮永さん…咲さん)

瞼の裏には彼女しかいなかった。
高校で出会った、ただ一人の掛け替えのない友人。

『だからここに残りたい…』
『こんな田舎の友達が何の役に立つ。麻雀だってほぼ運で決まる不毛なゲームだろう。練習して大会だなんてバカバカしい』
『では…高校でも全国優勝できたら…ここに残ってもいいでしょうか…』
『………できたら考えよう』

できなければ───
不吉な考えと回想を払い除けようと、和は浅く頭(かぶり)を振る。

 「あ…」

すると、和の目の前の咲は心細げで憂えるような表情に変わっていた。
彼女は感じた疑問をそのまま訊ねただけで何も悪くはないのに。
和は申し訳ないと、幾許か相好を崩して見せた。

 「和ちゃん…」

和の苦笑いに咲の声が響く。
和は考えていた。
こんな時に限って鈍くしか回転出来ない己の思考を恨めしく思いながら。
咲に。
全国の頂に秘めた裏側を、明かすべきか、否か。
決して、秘密にしようだとか隠そうだとか、そんな愚かなことをしたい訳じゃない。
ただ。

 (チャンスは一度きり。そう、私は咲さんと離れたくない)

和は咲と出会ってからの毎日を思う。
思えば、宮永咲は雷鳴のような衝撃を持って原村和の中に存在した。
雀風から始まり刻まれた、もう二度は出会えないであろう衝撃の人。
運や偶然が味方の限りを尽くす非現実的な咲の打牌。己と対極にあるそれは原村和に理解不能の眩しさを灼きつけていた。
対戦を得て、会話を経て、「麻雀はそれほど好きじゃない」 と全てを否定された筈であるのに、気が付けば和は必死だった。
足も心も走り始めていた。
論理も計算も追いつけはしなかった。
咲の麻雀も、無邪気な仕草も、改心の笑顔も、常に和の胸を乱し続ける。
そして、そんな乱調に矛盾する、押し寄せるような胸の熱を和はいつも忘れられない。
得体の知れない感情に引っ張られては、理屈では埋まらないものを覚えずにはいられなかった。

 (伝えてしまいたい。でも)

全国の場でも大将という責務を託されるであろう彼女、宮永咲。
チームの中枢と自らの悲願をも見据えている志にこれ以上を割り込ませてしまうなんて。

 (咲さんには咲さんの想いがあってこの全国へ望んでいる。私はそれを例えどんなに小さな確率でも邪魔したくはない)

自分が持っている事情を話せば、咲がこちらの顛末まで抱え込んでしまう可能性を和は恐れていた。
ましてや、考えたくもない、万が一のその時が訪れてしまったら ───
原村和は宮永咲の亀裂となり傷となり、最悪の形での痕を残す。

 (…そんなオカルトは)

ありえてはいけませんね。
和は自嘲気味に、そして、言わずの決意を固めてフワリと笑った。

 (私には私の想い…今はそれで )

和は改めて咲と視線を交わした。
説明しようと、次いで口を開きかけるものの、

 「やっぱりいいよ」

和よりも早く咲の声が滑り込んだ。

 「え…?」
 「さっきの質問、やっぱりなしでいい。ゴメンね」

和は目を丸くしていた。
咲の言葉は淡々としているものの、長く口篭ってしまったコチラに対して怒っている、という気配もまるでない。
しかしそれならば何故、知りたいと思ってくれた質問を撤回したのだろうか。
和には分からず、じっと咲の顔を見詰め返した。

 「それは和ちゃんにとって言い難いこと…、なんだよね?」

答えれなかった和の、数秒間の沈黙。
更に同じものをもう数秒待った咲は和に向かって頷いた。

 「それなら言わなくていいよ」

本当にいいのだと伝えるように咲が笑う。
それを受けた和は、今度こそ口を開いた。

 「…っ。ごめんなさい。咲さんは話してくれているのに私だけ話さないなんて…」
 「ううん。あれは私が勝手に話しただけだよ。それに、詳しい部分は私にはよく分からないけど…和ちゃんがちゃんと考えて、悩んで、そうしたいんだっていうことは分かるよ。だからいい」

和の肩に手を添えて、でもこれだけは教えて欲しいと咲が続けた。

 「優勝すれば、和ちゃんの願いは叶うの?」
 「………」

いつの間にか、自然な重みを宿していた咲の声に和が優しく気圧される。
和が触れるそれは、咲が嶺上牌を掴んだ時に現れる絶対の領域を彷彿とさせた。
名状し難い清らかな空気が肌を刺す。

 「……はい」

やがて、和は意を決し零すように答えた。
和の返事に対し、咲は「そっか」と安堵したような音で言う。

 「なら、私がすることは一つだね」
 「咲さんがすること?」
 「うん、そう。私がするべきことは結局あの日と同じなんだよ。……厳密に言えば ”私達” かな?」

咲は和に向かって小指を差し出した。
短く驚いた和に咲が微笑む。

 「私は和ちゃんのことも、自分のことも叶えたいって思ってる。二つも叶えたいなんて、とても欲張りだとは思うけど…。でもさ、無謀じゃないよね。全国にはこうして本当に来られた」

咲は万感の思いを込めるようにして長い瞬きを挟んだ。

 「これからの対戦校ももっと強くなっていくと思う。でも…私…もっと頑張るから…」

とても静かな声で、精悍に、咲が言う。

 「和ちゃん、一緒に優勝しよう。一緒に全国で優勝しよう!」

和の中であの夕暮れ下の時間がくっきりと浮かび上がった。
身体の奥で何かが突き上げてくるようで、感覚全てが自信に溢れる。
不思議だった。
咲の言葉は、あらゆる障害をいつもあっさりと退ける。
出来ると思わせてくれるだけの何かがある。
和の胸を問答無用で一杯にさせてしまう。

 「優勝しちゃえば二人の目標は達成出来る。清澄にとっては初の全国優勝になるみたいだし、長野に帰って優希ちゃんや皆とお祝いだね」
 「……咲さん」

和は無意識に目尻を擦ってから、咲の小指に自分のそれを絡めた。
指の温度が渡り切れば、どうしてか、涙が出そうだった。

 「必ず優勝しましょう」
 「うんっ!」
 「……ぁ」

水気が増した目を隠す為に顔を伏せようとした和を、咲の満開の笑顔が邪魔をする。
視界が白く明るい。
その笑顔は、今までのどれよりも改心で、穏やかで、強さに澄んでいた。

 「わっ…!?の、和ちゃん…!?」

和は咲の肩口に顔を寄せた。

 「ありがとう御座います…咲さん」


私は、咲さんと皆さんと、これからも一緒に。









東京の日々が数日過ぎ、いよいよ全国の組み合わせは決定された。
その正式開示された表を見る宮永咲の目は厳しい。
清澄と[白糸台]、姉が属している高校とは何の因果か真逆のブロックに位置していた。

 (全部勝って初めてスタート出来る)

それはつまり、決勝が最低条件となった瞬間でもあった。
しかし、その長い道のりを見据える咲に困難の色はない。
頭は妙にすっきりとしていて、何処かで「やはり」と納得さえしていた。
やはり姉に近付くのは容易ではないのだと。

 (優勝…するんだ)

どのみち、生半端な試合では歩み寄らせて貰えない。
白糸台は必ず勝ち上がってくる。
戦って、勝って、優勝するくらいが向き合うには丁度良い。

 「…和ちゃん」

それに、と。
咲は自分の小指に目を遣った。
指を通して、後ろに控えたもう一つの大切なものが映る。

 (大丈夫)

結局、咲は今も和の「それ」を正しくは知らないでいるのだけれど。

 (大丈夫だよ)

けれど、宮永咲は、あんなにも悲しく微笑む原村和を二度と見たくはないと思うのだ。
和の小指は、あの時確かに震えていた。
寄せられた瞳にはうっすらとした涙を湛えていた。
彼女がその先に何を見ているのかは分からない。
しかし、優勝を勝ち取ることさえ出来れば、彼女の震えも涙も晴れるに違いない。

 (約束だから)

咲は大きく息を吸うと、自分に言い聞かせ、宣誓するように言った。

 「私、勝つよ」

誰とも知れず拳を握った途端、咲の全身を電撃のようなものが駆けた。
小さく驚いた咲は、嶺上開花をアガる時のような確信の匂いに、ふと、自分のことを「牌に愛されている」と語った人がいたことを思い出す。
その時はよく分からないまま曖昧に頷いて見せたのだけど。

 「優勝するんだ」

もし、自分にそんな特質があるのなら。
それが本当ならば。
それに意味があるのなら。

 「そして和ちゃんと一緒に」

ああそれは。
きっと ─── この為だった。

 「笑うんだ!」

咲は再び身体を走る電流に断言する。
絶対確信を感じれば、熱い激しさも巡り始めた。
痺れを持つ程のそれは、さながら、「全部倒せ」と言ってくれているかのようだった。


















inserted by FC2 system