日付が九月二十四日に移行したばかりの今、竹井久は唐突に考えを改めた。
今日は一日中、最初から最後まで楽しく過ごせたら良いと思っていたのに。
こちらが告げた祝いの言葉一つだけであまりにも嬉しそうに、そして熱に中てられた顔をするから。
ケーキを食べるのを止めて。
ふと。
教えようと、決めた。



久局・九百二十四本場



堪りかねた竹井がクスと吹き出したところで、本日を誕生日とする主役、福路美穂子はようやく顔を上げた。隣に座る福路の顔は既に桜のそれにあり、折角顔を上げたというのに、右へ左へと泳ぐ瞳は随分と忙しいようだ。竹井はその世話しなく動く色違いの視線の隙を縫うと、もう一度、これは福路に悟られぬ加減で吹き出した。

 「美穂子、照れ過ぎよ」

竹井が冗談めいた口調で、しかし至極単純な本当を述べる。
まだ誕生日には当然捧げられるべき台詞を投げただけ。
本当にそれだけだ。
何も特異な事はありはしないのに、福路が竹井に見せたのは溢れんばかりの最上級だった。

 「ごめんなさい。とても嬉しくて」

竹井はこの福路の表情を実に好きでいるが、平行して、「だけど」と些か贅沢な逡巡を抱かせる距離でもあった。
彼女はいつも会っただけ・話しただけという段階でその表情を見せることが多い。
更に触れたりしようものなら、いつも偽りのない幸福が仕草で声で伝わった。
好かれていると感じる。嬉しいと思う。
竹井はそこにまかり間違っても不満を持ってはいないが。
「だけど」 ─── 「美穂子はもう少し欲張ってくれても構わないんだけどねえ」
竹井の明るい微苦笑だった。

 「おめでとうくらい、今までだって散々言われてきたでしょ?風越の後輩達がこのイベントを逃すとは思えないんだけど」

真隣にある顔をワザと竹井が下から覗き込んでみると、福路の桜色(おうしょく)は紅へと増して、けれど、そこでやっと彼女の挙動は竹井に集中された。

 「はい、それは勿論。みんな優しい子達ばかりですから。けど……久に、好きな人に言って貰えるのは、やっぱり…特別みたいで」
 「へぇ…」
 「おかしいですか?」
 「ううん。そういうのは普通に言っちゃうんだ、って思ってね。美穂子いま相当恥ずかしい台詞言ったわよ。自覚ある?」
 「───!!」
 「特別、か。悪くないわ」

思わず息を詰めた福路を見て、竹井が楽し気に頷いた。
それに対し、たっぷりと十秒はくすぐったそうにした福路が、「からかわないで下さい、もう…」と平らかな抗議を入れる。
最上級は今尚そこにあって、竹井は即座にからかっていないと心を振った。

 「でも、これくらいで満足されちゃ困るのよねー」

台詞の意味を掴みかねた福路が瞳だけで竹井に疑問を向ける。

 「恋人である私が貴女の誕生日に一緒にいるのは当たり前だし、祝うのも当たり前よ」

さらっと答えた竹井に、福路は恐縮した様子で口を開いた。

 「当たり前だなんて。久だって忙しいのに時間を作ってくれた訳ですし、私はそれで」
 「充分?」
 「はい。当然だなんて思ってたら罰が当たりますよ」
 「……ふぅん」
 「?」
 「やっぱ美穂子ならそうなるか」

竹井は目の前の綻び笑顔をおさめながら、やんわりとした自然な動きで福路の手を取った。

 「嬉しいんだけど」

そのまま瞬き三つ分程の間を空けたところで、竹井は低く言った。
着々と自分の空気を切り替え始める。
広げるのは、牌を握る時に似せた冷静と竹井久の底にある情熱の裏。
小片の黒を湛えた笑みを覗かせれば福路の聡い反応が窺えた。
竹井は福路の戸惑いを無視して迫る。

 「私の特別はこんなものじゃないのよ」

射抜くような竹井の声音に福路の体温が早い波を持つ。
下がろうとした手は視線で阻んで、竹井は空いていた片手を福路の後頭部に滑らせた。

 「誕生日プレゼントを含めて今からそれを教えてあげる。 明日からはあの程度で充分なんて言わせないから ─── 覚悟して?」

福路の首筋に顔を寄せた竹井が悪く笑んだ。
今日初めて乱れた福路の笑顔に、「それで良い」という不敵な考えが過ぎる。

 「え…っ、久」

常に最上級、は長所にも短所にも合わさる、慎ましい福路美穂子の特質だった。
不満はないのだけれど、知らないと言うのなら教えてあげる。
その上を、欲を、覚えて見せて。

 「ん、!」

浅く仰け反った福路を引き寄せた竹井が唇を捉えた。
受ける福路の全身はやはり無駄に強ばっているものの、重なった部分は彼女そのものを象徴するように柔らかかった。
暖かい。まず初めにそれがきて、次に行き場を失った羞恥が露見、全身の上気、そして身じろぐ、動きを制して、接着箇所を深めて、更に次、体躯の力が抜けて。

 「は…。ひ、さ」

最後、受け入れ表示。
食んだ息に溶けかかる福路を見て、竹井は静かにそれに酔う。
しかし、まだ動きを緩める気はない。
まだ。
教えるにはまだ足りない。

 「美穂子、少し口開けて?」

人の肌はどこまで赤くなれるのか。
際立った紅潮に確信がある福路はフルリと首を横に動かした。
一度、竹井の口元は福路の右瞼に移る。

 「だーめ」
 「そ、んな」

切れ切れに福路が言う。
こういった方面となると極度に狭くなる福路の許容量は既に ─── 厳密に言えば、九月二十四日の開口一番、竹井の深い声で「誕生日おめでとう」と言われた時からもう一杯一杯だった。
加えてこんな状況である今、福路がまともに思考など出来る訳もなく、何が何かを理解しないまま、彼女はただ思う事を率直に返答するのみである。

 「恥ずかしい…です」

福路のか細い声に、竹井の脈が弾んだ。

 「はあ。美穂子、知ってる?そういうのって世間では反則って言うの」

「または逆効果」と、こちらは内心で呟いた竹井が、先程よりも荒く唇を合わせた。
震えと緊張が詳細として伝わり切る。
不安定で危なげで、それでいて妙に心地良い数秒間。

 「…ん」

その心地良さの中、まさに溺れる寸前の福路が、僅か、本当に僅かな開きを見せた。
逃すつもりなどない竹井が素早く舌を進め入れる。
福路のそれと絡めると小さな粘着質の音がした。
音の響きに過敏に反応する福路を愛らしいと見た竹井が、意地悪く、もう一度、意図して音を立てた。

 「…!」

莫迦みたいに熱を持った舌を感じる。
角度を変えて捉え続けて濡れ合わせる。
甘い。
いまや唾液はどちらのものか分からない。

 「ッ」

やがて息苦さを訴えた福路に、竹井はよりぴったりと口付けた。
名残惜しく、そしてようやく解放して、乱れがちになった呼吸を整える。

 「美穂子…、おーい、美穂子。大丈夫?」

放心半ばで空白を追っていた福路がハッと自身を立て直す。
もう心拍数は整い出しても良い筈であるが、彼女は良くも悪くも苦しそうで、近過ぎる竹井の顔を直視出来ないでいた。

 「ふふっ」
 「あの、今、え、久、そのっ…」

目を細めた竹井が落ち着かせるように福路を見る。
次に福路の唇を親指の腹で撫でた。
色違いの瞳がビクリと揺れる。

 「はいはい、そんなに警戒しないの。この先は十一月半ばまで取っておくから」
 「十一月?あ…久の」
 「そ。次は私の誕生日。だから泊まりにいらっしゃいね。その日は定番の ”親はいない” 設定を仕込んでおくから」
 「先って…」
 「先は先。たまにはストレートな良い待ちで和了るのもありよねー。ある意味単騎待ちだけど」

遊びの中に本気を漂わせた竹井が続ける。

 「……まあでも、もし美穂子の許可が貰えるのなら」

竹井は繋げたままにしておいた片手に力を込めて、そっと福路を押し倒した。

 「別に私は十一月を待たなくても良いんだけど?」
 「え…っつ」
 「ね?美穂子」

吐息は敢えて鼓膜に乗せた竹井が、もはや流暢に話すことさえ不可能になった福路を完全に差し押さえる。
その時に離した手は本能に従い、彼女の豊かな胸元へ添えた。

 「…美穂、」

福路の反応を覗き見た竹井に、不思議と停止の兆し。
軽い混乱状態にあるといっても違いのない福路が気付ける術は無かったが、この瞬間に竹井の「教え」は完遂を得る。
ほくそ笑む竹井。
竹井が見た福路の表情、それは微温と艶、無垢で大きな ”期待” に満ちていた。
欲を覚えた確かな証拠がそこにある。




 「ごめん、やっぱ待てないかも」
 「ひ、さ、待っ」

竹井の唯一の誤算は己の歯止めが困難になった事であるが、それは潔く謝る事とした。

 「さっき謝ったわ。待てないかもって」
 「…!!」
 「訂正。待てない ”かも” じゃなくて、待てない」
 「あ…、んっ」




九月二十四日。
竹井久と福路美穂子、二人の時間は ─── まだ始まったばかり。



















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