福路美穂子の動きに、ぎこちない制止が掛かった。
県大会の幕が閉じた今日の夜、宿泊先ホテルでの出来事だった。



これより最果てに挑む



予定を越える宿泊の手配と許可を取ってくれた久保貴子、コーチに正式な礼を伝える為に福路は部屋前を訪れていた。
ノックをしようと利き腕を上げた時、偶然聞こえた久保の声は実に静かな質で響いた。

 『解雇ですか』

福路に触れた、耳を疑うに相応しい談話。
襖扉一枚挟んだ場所から届いた衝撃は動揺をも連れてくる。
傍目にも見えるレベルでの動揺は彼女にしては珍しい。

 『ええ、はい』

福路には久保と話している者の声は捉えられなかった。
独り言ならば敬語調で話すこともないだろうから、相手は恐らく携帯電話の向こう側。
それも、久保貴子のコーチとしての進退を決定付ける相手だとすれば、電波を介して繋がっている人間は、十中八九、風越の学校関係者だ。

 『福路+42000、吉留-1200、文堂-49000、深堀-10500、池田-45500、おっしゃる通り、先鋒以外は全てマイナスです』

このまま自侭に聞いて良い話ではないと弁えた福路は出直しと意を決めて踵を返した。
薄暗い廊下を一歩進んで、二歩進んで。
口元を引き結んで、そして三歩目で足を止めた。
解雇、どうして。
簡単、取り戻せなかったから。
強く合わせた唇には恭しいまでの敗退の味が乗っている。コーチに突き付けられている解雇の理由がそこにあり、異議を挟む資格は予め自分には無いのだと釘を刺しているようだった。
県でも数少ない特待生制度を認めている風越女子。他校に比べれば莫大となるだろう予算の振り分けと、学校側からの設備投資も申し分のない高水準を維持している。
厚い待遇の裏にはそれなりの結果を持って応えなければならないもの。
常勝は義務とされ、勝利に喜びはあれど、特別誉め称えられる事ではなかった。
しかし、それに対して別段、悲哀といった意識を抱くこともない。
ここは 「風越女子高校」。連戦連勝、そうある状態が通常であるからこそ、あったからこそ、名門の字(あざな)を認められ、強豪と呼ばれ、麻雀を志す者の多くがその名を心に刻むのだ。

 『決勝戦では四校中最下位と…』

淡々としていた久保の声に嘆きの色が宿り、福路は恐怖に酷似した緊張を覚える。
昨年に途絶えた連続優勝の座。
今年はまた始めるべく、必須として、覇権の奪取を求められていた。

 『ここ近年の成績としては過去最低でしょう』

感傷を差し引いた客観的で公平な目は、あの試合をどう語るのだろう。
掛けられた期待の規模も大きかったのなら、誰かの失望はそれ以上に大きかったのだろうか。
練習に費やした時間と比例しなかった成績は、コーチをも落胆させてしまった。
共に日々を尽くした、コーチをも。

 『しかしお言葉ですが、決勝の数字だけであいつ等を評価するのは如何なものかと。福路・池田・吉留・深堀・文堂、二年が主体の編成でしたが、私の知る限りで歴代最高の力を持ったチームでした』

俯き加減でいた福路が予期せぬ久保の台詞に振り向かされた。
隔たる襖扉へ投げるは純一の驚き。
チームの誰にだって見せることも、暴かせることも許さなかった久保貴子がいた。
福路はこんな風にチームを語る久保を知らない。
厳しさの中に存在する想いを感じ取ることは出来ても、それは決して口にしない人だった。

 『いいえ、私の解雇について異存は何も。このチームは過去最低ですが、過去最高でもあったとお伝えしたかった』

福路の風越女子麻雀部員の、キャプテンの気概が焼け付くように痛んだ。
風越麻雀部に最も近しい人が出してくれたチームの評価は、どれだけ有名なプロや解説者が出すものよりも万感に溢れている。
涙が出そうになった。嬉しさ以上に、そう認識してくれているのにも関わらず、自らの評価に添えようとしない久保貴子の潔さが福路には寂しかった。
この一年、実際に体感しては映してきた日夜が思い出される。
厳格に輪を掛けた徹底的な指導は、部員各々が持つ個性の打ち回しとよく衝突していた。
繰り返される一喝、苦しい困難を、後輩達も三年生の部員も涙を流しては耐え抜いてきた。

 「コーチ…」

対立して、怒鳴られて、泣いて、立ち上がって、また悪戦苦闘する毎日だったのだけれど、実力・立場共に部員八十名の長にある福路には、もう一つの事がよく見えていた。
福路は部員の悩みも不満も先頭に立って受け入れてきたが、今まで誰からもコーチを「嫌い」 だといった言体を聞いたことがない。怖いや厳しいは日常だったが、どう辛くあっても、「拒絶」 には至らないのだった。
久保貴子が叱る時、そこには必ずミスがあり、理不尽はない。
微細な見逃しを指摘出来るのは、その者をきちんと胸に留めているからだ。
叱咤を絶えずに継続出来るのは、その者を安易に諦めていないからだ。
口には出されなくとも、怒声の全ては最善の打牌に繋がり、やがては最強の打牌と成ることを、部員全員が心得ていた。
無骨なりに貫き注がれる久保貴子の愛情を嫌いになれる者は、この風越女子にはいないのだ。
風越のコーチはどこまでもいっても久保貴子で、”キャプテン” という部員ともコーチとも密接な位置にいる福路にはそれが染み入るようによく見える。

 「盗み聞きとは良い趣味をしているな、福路」
 「!」

横から差し込まれた唐突な言葉に、福路は驚き肩を跳ね上げた。
開かれた襖から漏れる淡い光が廊下を照らしている。

 「怯むな。お前が呼んだんだろ」

久保は携帯電話を折り畳みながら続けた。

 「その様子じゃ聞いたみたいだな」
 「…申し訳ありません」
 「ちっ。よりにもよって一番鬱陶しい奴に聞かれたもんだ。まだ他の奴等には黙っておけよ」

それだけ言って、部屋奥に戻ろうとする久保を福路が引き止めた。

 「コーチ、今の話は本当なんですか?」
 「こんなくだらない嘘を並べてどうする。決定だ」
 「コーチは…それで……」

何かに立ち向かうようにして、福路は問いを投じた。
自分が見てきたものに誤りはないと確信しているから、絶対に視線は逸らさない。

 「ガキが首を突っ込める話じゃない。…それにお前達も清々するだろ。指導者が変われば周りの奴等の目先も変わる。そうすれば今回の負けをグダグダ言ってくる人間も減るからな」

応えても答えなかった久保の台詞が福路の中心に迫る。
「それで良いのか」と暗に聞いた福路に対する久保の回答は零に等しく、その後の言葉は、最期までチームを守ろうとしているようにしか聞こえない。
福路には見えてしまった。
チームの誰にだって見せることも、暴かせることも許さなかった、感じ取ることしか出来なかった筈のコーチの愛情が、こんなにもはっきりと外に出ている。
厳格で徹底的なままの久保貴子でいられなかった、その振れ幅が、皮肉にもこの状況の回避の難しさを教えていた。
本当に最期なのだと、思わざるを得なかった。

 「…分かったなら、さっさと部屋へ戻れ」

福路は考える。
同じ志、同じ道を確かに紡いできた人。
崖の淵に立っても尚、非難の一つも残さずチームを守ろうとしているこの人に、福路美穂子が何が出来るのかを速く懸命に。

 「福路、聞いているのか」

この一年に咎められる所などありはしない。
それは敗退した今も不変で永遠だ。
けれど、それでも敵わなかった誓いがある。
雪辱は雪辱のまま幕を下ろした。

 「まだ、です」

実らなかったものに取り返しはつかない。
何か出来ることがあるとすれば、それはやはり前でしか見付けられない。
福路は、決めた。

 「まだ、風越は全国へ行けます」
 「………どういう意味だ。手短に話せ」
 「団体戦の敗退は心苦しいですが、今からではどうすることも出来ません ─── ならせめて、 ”私” が全国に」

福路は語尾に「必ず」と付け加えた。
チームで勝ち取る団体戦のそれには及ばないと承知の上で、言い訳に近い詭弁だと悟っていても、この一年の成果を示す寄る辺はもうここにしかない。

 「……個人戦か」

久保が低く呟いた。
福路も険しい双眸で続く。

 「チームを勝利に導けなかったのは私も同じです。責務をコーチだけものにしないで下さい」
 「あ?」
 「コーチのおっしゃる通り、私は子供で、コーチが背負われているものも正確には掴み切れずにいます。……でも、私は風越女子のキャプテンです。その責務、少しは分けて欲しいと願います」
 「…生意気なことを」
 「 ”風越” は必ず全国へ行きます。久保コーチはそれを ”使う” と約束して下さい」
 「お前が全国に行けば結果的に風越の名も全国へ行く、か。……仰々な屁理屈だ」
 「しかし、やり遂げれば真実にも繋がります」
 「開き直るな」
 「抗うことを無駄だとは思いませんから」

福路が言い募る。

 「風越女子麻雀部の皆は久保コーチが大好きです。……勝手に離れられては困ります」
 「……お前にしては面白い冗談だ」
 「冗談では…」
 「ああ、そうだな。冗談だな」
 「コーチ、お願いで───」
 「……」

福路の台詞に被せるようにして久保の深い溜め息が溶けた。
スッ、と。福路はまるで合図を送られたように、黙してそれに頷いた。

 「一位で突破したら考えてやる。団体で奪れなかったものを風越に持ち帰れ」

この瞬間、福路の中で新たな誓いが確立された。

 「はい!」

福路美穂子が持つ全てで、もう一度この夏に挑む。







個人戦が終了した直ぐの後、優勝トロフィーを持った福路美穂子は、あの日と同じようにして久保貴子の部屋を訪れていた。
襖を開いた福路が見たのは、また同じく携帯電話を折り畳んだ久保の姿だった。

何も言わず、金に輝くトロフィーを差し出した福路。
受け取った久保はただそれを見る。
瞬(まじろ)ぎもせずに、ただ、見ていた。

動いたのは数分後。

久保は、おもむろに福路の頭を押し付けるようにして撫でた。

 「い、痛いです。コーチ」
 「─── る、福路」
 「え…」
 「二度は言わない」

力を加えて更にもう一撫でされた福路が笑みを覗かせる。
上目遣いに久保の表情を窺い、何か相応しい言葉を模索してみるも、やがてそんなものは必要ないのだと思い至った。

─── 「感謝する、福路」

福路は、久保が言った小さなその言葉を聞き逃しはしなかった。


















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