子供以上大人未満<中編>



どうぞ、と福路が差し出したティーカップを竹井は礼を言いながら受け取った。
仄かに湯気が立つ紅茶は肌寒い夏日に丁度良く、絶妙に喉を潤してくれる。
淡いパステル調で纏められた部屋と紅茶の香りとが融け合って、まさにほっと一息という語句を体感している気分だった。

 「申し訳ないわね、気を遣わせちゃったわ」

図書館での福路の申し出を受けた竹井は、三度の検索により弾き出された<復旧は未定> という文字を見て携帯を閉じた。
時刻は二十二時を回っている。最悪の場合は泊めてくれるという福路の計らいがこのまま現実となりそうで、突如来訪してしまった身としてはやはり申し訳がない。

 「いえ、言い出したのは私です。…竹井さんは気になさらないで下さい」
 「そう言ってくれると有難いけど。夜遅くに押し掛けちゃった訳だからねー」
 「大丈夫ですよ」
 「ありがと」

竹井は更にもう一口紅茶を通してからカップを置いた。
些少のしじまが降りる。
何とはなしに肩肘を付いた竹井が福路を見た。

 「ね、福路さん」
 「はい」
 「先に一つ訊いて良い?」
 「勿論です。何でしょう」

対面に座る福路が同じようにカップを置くのを待ってから竹井は問い掛ける。
それは今日に彼女と再会した時から小さく引っ掛かっていた他愛も無い内容だ。
話題に入り込んでしまう前に、まずはこちらを解消させておきたいと思う。

 「”竹井”って苗字、もしかして呼びにくいかしら?」
 「…!」
 「私の勘違いだったら悪いんだけど、図書館で会った時とか今さっきとか、呼ぶ前に少し間があるような時があったから」

福路は一度顔を伏せ、ゆっくりとまた竹井に視線を戻した。

 「……ごめんなさい。私の中での竹井さんは”上埜”さんの時の印象が強くて」
 「ああ、それで」
 「早く直さなければ失礼になるとは分かっていました。それなのに私…。本当にごめんなさい」
 「あ、違う違う。別に責めるつもりで言ったんじゃないの。私が上埜だったのは事実で、他校生の福路さんが慣れていないのも無理はない。だからそこは謝るところじゃないわ」

竹井が大袈裟加減で横に手を振った。

 「でもややこしいでしょ?だったらいっそ下の名前で呼んでくれればって思っただけ」
 「そ、それはまだ」
 「いいからいいから。同じ学年で堅苦しいのは無しにしましょうよ」

顔を赤くしてしまった福路は、言い出しづらそうな雰囲気を滲ませている。
嫌がってはいないが、恥じらいを超え切れない様子だ。
竹井はフと白い歯を見せた。
かの名門校風越女子のキャプテンは闘牌時の鋭さとは違って、どうやらこういう事には慣れていないらしい。
大会時、風越の後輩達が常に彼女の後ろに付いて歩いていた理由が少しだけ理解出来た。
学校内でもきっとそう。器量よしで麻雀も強いのに、卓を離れた彼女は比較的内気で人付き合いには長けていないのだ。過ぎた気配りは相手を選び、時には棘をも覚えさせてしまうから、それが苦手な人からすれば彼女の振る舞いは一等毒に感じられてしまう。後輩から見れば、普段頼りにしている人物は、その反面で実に心配な一面を持っている事となる。
これは、確かに何だか放っては置けない。

 「私も下の名前で呼ばせて貰うし。美穂子で良いのよね?」

福路が頷いた。

 「私は久だから。宜しくね」

改めて頷いた福路。
そして長めの深呼吸を落としてから、ようやく竹井の名を呼んだ。
何度か詰まりながらも、しっかりとした発音が空気を揺らす。

 「久」
 「うん、そっちの方がしっくりきて良い感じ。私をそう呼ぶ人は少ないのよ。嬉しいわ」
 「…私もとても嬉しいです。私は要領が悪くて、いつも周りを困らせてしまいますから」
 「別に良いじゃない」

自然と出た竹井の即答。早さが本音であると伝えていた。
え、という顔で福路が竹井を見る。

 「人間なら得手不得手があって当然。麻雀の打ち筋のようなものね。同じような人間ばかりだったら面白くないし」
 「……」
 「それに、私みたいに困らないタイプもいるわ。もしかしたら相性良いのかもね、私達」

残念なことに、福路が決定事項のように言った ”いつも” に竹井は該当していなかった。
現に今もこうして困ってはいない。それどころか、鋭敏な打ち手が実は存外危うくて放って置けない人物だったとくれば、竹井の福路に対する興味は募るばかりだ。

 「 ─── って、どうしたの美穂子?」

机に身を乗り出しながら竹井は福路の顔を覗き込んだ。
福路は竹井を透かすかのようにして後方へと眼差しを向けている。
喜怒哀楽のどれにも属していない表情、例えるなら、何かに焦がれているような。
竹井が重ねて呼ぶ。
すると、福路の瞳が慌てて戻った。

 「あっ、ごめんなさい。初めて会った時のことを思い出していました」
 「私と?」

間接的に知ってしまった眼差しの行方に、竹井が小さな驚きを含んだ。

 「久は今と変わらず優しくて……」

福路は一度そこで言葉を区切り、右目に手平を当てる。

 「覚えていますか?」
 「ええ。個人戦でも見た青色の目よね。綺麗な」
 「三年前もそう言ってくれたんです。あのインターミドルで戦った時、久の強さに立ち尽した私は右の目を閉じることを忘れました。人前では絶対に見せないと決めていたのに」

誠意を持って話す福路に応えるべく、竹井は黙って耳を傾ける。
脳裏に断片的な過去を描きながら、手繰るように。

 「見られた瞬間に私は慌てました。この色を不快に思われることが怖かったんです。でも擦れ違った時に言われた台詞は私が予想していたものとは正反対で…それが…とても嬉しくて」
 「”知ってる?青いサファイアは赤いルビーと同じ素材の宝石なのよ”」
 「…!」
 「たぶん私はそう続けたでしょう」

腕を伸ばした竹井が福路の右頬に手を添えて下瞼をそっと撫でた。
今から投げる言葉は、別に告げなくてもいい余計な話だと竹井は承知している。
だが、あの焦がれたような眼差しの先、もし自分が由来していたのなら、手持ちの事実は全て伝えておくべきだと思った。

 「さっきの美穂子の台詞には訂正が必要よ。私は別に優しさがあってそう言った訳じゃない」

竹井が続ける。

 「貴女がその目に対してあまり良い思いをしてこなかったのは仕草を見て直ぐに分かった。だけどあの時の私は今よりも捻くれていたし、初対面だった美穂子を気遣うつもりはなかったの」
 「それならどうして」
 「だから言っちゃったのよ」
 「?」
 「ルビーとサファイアは同じ素材、つまり、違っていても起する所は同じなのよ。貴女の青い色も何もおかしくないってこと。まあ稀少さは否定出来ないから、それをからかう人も居たかもしれない。だけど私は綺麗だと思っていたから。悪いことをしている訳でもない貴女が隠さなくても良いんじゃないかって感じてた」

福路の瞳が微動する。
その先は竹井が引き取った。

 「分かってる」

明るい口調にも真摯を張った竹井。

 「現実はそんなに甘くはないわ。だからほら、考慮が足りないし無神経。優しくはないでしょ」

正として受け取っていた過去の言葉を負の側に訂正されて、彼女にしたらいい迷惑だろう。
だけど、綺麗だと言ったのは優しさからではない ─── それはとても大切なことのように思えた。

 「ありがとう御座います」
 「えーっと、今の流れでお礼?私としては違和感が残るんだけど」
 「久のお陰で、私は少しだけこの目を好きになれました。気遣うつもりがなかったのならもっと嬉しく思いますし、それに、あの日から知りたいと思っていた言葉の意味も知ることが出来ましたから」
 「要するに、待っててくれたってことかしら」
 「そんな良いものではありません。いつか、とこちらが勝手に思っていただけです」
 「いつか…か。二回戦以降は顔も出してなかったしねー、私」

ばつが悪そうに言った竹井に、福路は意表をつかれたような顔を覗かせた。
口に出すべきか否かを悩むように迷った福路の様相。

 「久は…あの三回戦」

ワントーン落ちた言葉は続かない。
竹井が継いで返答を返すよりも早く、福路はツと机の上に視線を遣った。

 「すみません」

先の言葉を失言だと感じたのか、福路は頭を下げた。
そして空になった二人分のティーカップを集めて立ち上がる。
対する竹井は素朴に、ああ、と目を細めていた。それを気懸りにしているのは何も不思議なことではない。寧ろ、逆の立場ならもっと早い段階で訊ねていた思う。
何故ならインターミドルは中学国内最高峰の試合。戦わずして負けるのは、普通に戦って負けることよりも遥かに難しいのだ。誰だってそう。まず第一に勝ちたいとして、同じ黒星を拾うのなら、せめて卓上で拾ってこその本懐だ。
その心構えは福路美穂子も持っている、持っているから、言い出せなかった。「棄権」は言い換えるのならそれだけの事情があったということになるのだから。
気懸りは必然。このまま主題を進めていっても問題はなかった竹井だが、福路が慮ってくれたこの間合いを散らかすつもりもなかったので、気にしていないと素振りで伝え、何も言わずに先を促した。

 「おかわりを入れてきますね。同じストレートで構いませんか?」
 「ええ。悪いわね」
 「少し時間が掛かりますから、楽にしていて下さい」
 「りょーかい」




扉の閉まる音が静かに響いた。
自室を出る福路を見送り、一人になった竹井は背中からゴロリと横になる。
天井が見えた。
だが竹井は天井を映さず、此処でなく今でなく、三年前の今日に焦点を結んだ。

 「…インターミドル」

懐かしいと思ったら、口を衝いていた。
竹井は携帯電話を開き、念の為といった心持ちで今日の日付を確認する。
点灯したディスプレイ表示にある数字が示していたのは部室で認識したものと全く同じ日付。
竹井は閉じた携帯を横に置いて額に片腕を乗せた。
大きく息を吸って、吐いてから目を閉じる。
やはり、今日この日で間違いない。

インターミドルを棄権した日は今から三年と少し前。
棄権した数日後、姓を上埜から竹井に変えた日が、丁度三年前の今日。

今日という日は決まって竹井久を複雑にさせた。
理由は知れているし、それで調子を乱す竹井ではないが、喉の渇きのような硬さが付き纏うことについては対処のしようがなかった。
傷にも痕にもしていない、整理も付けた。本当だ。
しかし痛む時が、油断すれば溢れる時もある。
以前、後輩にふざけて「私だって繊細な女の子」だと述べたことがあるが、あながち全部が冗談では流せないような気がして、竹井は笑った。

 「全く…」

竹井は眉間を押さえた。
笑ったら ”油断” してしまったようで、目頭が熱を持っていた。
部室で目覚めた時のように、何もしていなくても、感情の律に爪が立つ。

 「子供じゃないんだから…」

瞬きを繰り返しながら竹井は即座に身を起こした。
立て直す間もなく、迂闊にも、扉越しには福路の気配。

 「戻りました」
 「お帰りー、早かったのね」

ヒラヒラと手を振る竹井に福路は微笑む。
しかし、そのままゆるりと机に突っ伏した竹井を不思議に思ったのか、カップを置いた後は隣に腰掛けた。

 「ごめん、美穂子。今ちょっと駄目かも」
 「駄目?」
 「そ。昔を振り返ってたら変な感じになっちゃった。この顔は見せられたものじゃないわ」
 「!…わた」
 「ストップ。美穂子のせいじゃないから」

福路の発言を先読みで制した竹井が僅かに面を上げた。
クシャっと髪を握り込む。
格好を付けたい訳ではないが、あまりこういう顔を人に見せるのは好きではない。

 「実は、たまたま今日なのよ」
 「?」
 「私の名前が上埜から竹井になった日。毎年この日は何故か微妙にヘコんじゃったりするのよねー」

竹井は、インターミドルの三回戦を棄権した背景もここにあるのだと話を寄せた。

 「……理由は、」

核心へ入った話。
福路は進みゆく話に神妙に耳を傾けていた。
しかし、やがて耐え切れなくなったように、細く深みを灯した声で竹井を呼んだ。
「久」と。
零すように言われ、思わず竹井が福路を見れば、視界がふわりと白に変わった。

 「美穂子…?」

竹井は福路の香りと体温を間近で感じ取り、この白は彼女の制服であると理解した。
少し早めの鼓動まで捉えられるのは、その距離に招き入れられたから。

 「顔は見えませんから安心して下さい」

これだけ近ければ、確かに顔は見えないだろう。
竹井は福路の意図を探るまでもないと、身体の力を抜いた。
たっぷりとした間を介在させた後に、起伏なく訊ねる。

 「そんなにだった?」

主語も述語も欠いた問いでも、隣で話を聞いていた福路には充分だった。

 「はい…とても辛そうでした」
 「そう」

竹井は浅く肩を竦める。
そんなに。客観的に、泣いた方が良いと思われる程。

 「いいの?ここで中断したら美穂子の気懸かりは解けないままだけど。私と話がしたかったのって、ここの部分も大きいんでしょ」
 「いいんです。また今度でも、ずっと先でも、久の気が向いた時に聞かせて下さい」

竹井は答える代わりに更に福路へ自重を委ねた。

 「久こそ、どうして私と話をしたいと思ってくれたんですか?」
 「個人戦であんな風に打たれたら興味を持たない方がおかしいわ。美穂子のことも思い出せたし」
 「あの時は、私は久に覚えられてなかったんだと思ってましたけど…」
 「ごめんね。時期が時期だけに…何と言うか、いまいち記憶が明確じゃなくて」

特大の慨嘆を挟んでから竹井は言った。

 「でなきゃ、貴女を忘れるなんて勿体無いこと、出来っこないわ」

全身に暖かみを溶かしながら、竹井が思惟を巡らせる。
福路美穂子は、鋭敏な打ち手・存外危うくて放って置けない。それも一つの正解だが、本質は少々違うところにあるらしい。
彼女は、危ういのでも放って置けないのでもなくて、その穏やかさ、圧倒的な情でこちらを引き込んでしまうのだ。
受け付けない人はそこまで。そうでなかったのなら、彼女のこの幅にまた触れたくなる。
引き込まれて、事と次第によったら惹き込まれる。
竹井がクツクツと微笑した。
ふと、ズレた着眼点から風越の麻雀部員達は毎日大変なんだろうなと考えた。

 「この雨に合った意味か…」

音量は敢えて小さく、福路には聞き取れないようにして、竹井が嘯いた。

 「え?」
 「ううん。何でもない」

人前で泣くのは三年ぶりだと思い、竹井は福路の腰に腕を回して、涙を預けた。


















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