子供以上大人未満<前編>



部室にて眠りから覚めた竹井久は頬に違和感を感じて、指の腹をその部分に寄せた。
しばし頭にはクエスチョンマークしか浮かばない。
夢見が悪かった記憶は皆無。部活後に一眠りしてから帰るつもりでいただけなのに、頬には涙が通ったと思われる形跡があった。

 「なるほど」

上半身を起こしながら壁に掛かっていたカレンダーを見た時、竹井の脳裏から疑問符が綺麗さっぱりと消えた。
覚醒半ばにあった意識も現実へと戻る。

 「…今日はこの日だった訳ね」

格好悪いなあ、と言いながら竹井は他人事のように溜息混じりで笑う。
そして顔を洗おうとベッドより足を下ろしながら部室全体を覗き見渡した。
本来ならば騒がしさあっての清澄高校麻雀部で、それは竹井がこの世で最も好む喧噪ではあるものの、今だけは他の部員が帰宅してくれていることが救いだった。
らしくないこんな顔を晒さずに済んだのだから。




部室から出、校門をくぐった竹井は駅へと足を向けた。
ただ何となく真っ直ぐ家に戻る気にもなれず、考えた結果がこの広い寄り道だ。
地元にある図書館は大抵が十八時前後で扉を閉める為、今からではとても間に合わない。
ならば、夜でも開いている大型の図書館でも行ってみようかと思い立てた。
寄り道というにはそれなりの距離を移動していることになるが、他の興味のない場所で無為にブラついているよりはよっぽど有意義だろう。
買い物も嫌いではないが、今は気分ではない。

 「うーん。でもこれは裏目ったかしら」

目的地まで後一駅の所だった。
竹井が座席で伸びをしつつ、窓に目を遣れば、トツトツとした細い雨音が視線に応える。
空はいつの間にか曇り模様だった。おまけに風も強くなっている。
竹井は今日は一日中晴れると言っていた朝の天気予報を恨みながらも、ぼんやりと 「この雨に合った意味」 を考え始めた。
これは竹井のクセのようなもので、主に、自身が取った行動が裏目に出た時に行われる思考だ。
麻雀の時しかり、日常生活しかり。
麻雀のツモと毎日はとてもよく似ている。
一つの判断の中に天使と悪魔が仲良く混在している様なんてまさにそうだろう。
どちらかと言えば今日は後者と出合ってしまった訳だが、引きに恵まれなかったとしても、その時すでに対峙してしまった現実を悲観するだけなんてつまらない。それなら意味を探し出せば良い。
お気楽なプラス思考だとは自分でも時々思うが、どうせ逃れられないのなら、面白く進みたいと思うのだ。
もしかしたら、最後の最後のツモで大逆転が待っているのかも知れないし。




図書館に辿り着いた竹井は手持ちのハンカチで髪を撫でた。
駅からここまで歩調を速めた甲斐あって、水が滴る程は濡れていない。全体的にしっとりとはしてしまったようだけれど。
竹井は鞄にハンカチをしまって、規則正しく並ぶ本の海を眺めた。
僅かに気分が高揚する。さて今日は何を借りて帰ろうか、地元ではあまり読めないものが良い。
真っ直ぐに伸びた道を竹井が数分進めば、覚えのある作家の名前に出合った。
本棚の端にいくつか並ぶ短編集に心を奪われた竹井はそのハードカバーの本を手に取る。
この作家はお世辞にも名が売れている訳ではないのだが、竹井は気に入っていた。
他人には真似難い独特の日本語使いと、それでいて登場人物に対する懇切丁寧な心象描写を欠かさないので、何度読んでも飽きがこない。物語の結末を知っていても紙面に並ぶ文字群につい期待してしまうのだ。
竹井は鼻腔を掠める書物特有の匂いに心を置きながら、その場でとある短編の冒頭に意識を寄せた。
が、即座に予想外の侵入香に意識を削がれて現実に戻されてしまう。
この場にはやや不釣合いな清潔な香り。ぴたりと当てはまる比喩表現が出てこないものの、それは晴天を思わせる空気を持っていた。
竹井は顔を上げた。
通路側を浅く覗き込むと、いとも簡単に香りの正体が見つかる。
制服姿であることから、相手も恐らくは部活帰りだろう。
竹井は晴天を連想させた人物に一つ納得してから声を掛けた。

 「福路さん」

相手が振り向いてこちらを認めた途端、不自然なくらいに驚かれた竹井が短く笑う。
確かにまともな会話をした事なんて数えるくらいしかないのだが、そんなに驚く必要もないのでは。
互いにまだ個人戦の記憶は新しいだろうし、相手はもっと前からこちらを覚えていてくれたようだったから、顔くらいの認識はあって違いないと思ったのだけれど。

 「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 「すみません。まさかこんな所で、う…竹井さんとお会いするなんて思ってもみなくて」
 「意外だったかしら。私が図書館にいるの」
 「いえ、そんなことは。ここは風越に近くても清澄からは距離がありますから」
 「あー」

竹井は緩く頬を掻いた。

 「ま、ちょっと気が向いてね」

どう説明したものかと思った竹井は、あまり前向きな動機でなかったことを考慮して、嘘にはならない程度の言葉で濁した。

 「地元にある図書館よりもこっちの方が本の数も多いし。福路さんは?」
 「私は借りていた本の返却と明日の予習です」

福路は右手に持っていた鞄を軽く持ち上げた。
そしてふと何かを思い出したかのような表情をして続けた。

 「でも竹井さん。帰りは大丈夫ですか?」
 「え?」

一瞬、何を言われたのか分からなかった竹井は反射的に疑問を口にしたが、窓に視線を向けた福路を見て、雨のことを指しているのだろうと思い当たった。
木々の揺れ具合から察するに、雨足だけではなく風の強さも増しているようだ。

 「大丈夫よ。傘は持ってないけど、コンビニか何処かで買うから。駅まで行ければ問題ないしね」
 「その…電車がしばらく運転を見合わすらしくて」
 「うそっ」
 「借りていた本を返却した時に受付の人が。急に強くなった風の影響だそうです」

竹井は携帯電話を取り出して、路線情報を調べた。
<復旧は未定>という文字が検索によって弾き出された後に盛大な溜息を吐く。

 「あちゃー。ここまで裏目るとは…さすがの私も予想外ね」
 「やっぱり駄目そうですか」
 「そうね。少なくとも今は全線停止。福路さんも早く切り上げた方が良いと思うわ」
 「竹井さんは…?」
 「悪待ち上等!…って事でここで雨宿りかしら。正直、電車が止まったんじゃ手の打ちようがないのが本音なんだけど、分の悪い賭けは得意だしね」

ウインクをしながら飄々と言う竹井に福路が頬を緩めた。

 「それは身に染みて分かっているつもりです」

竹井にはこの福路の台詞が皮肉や嫌み等の角度から紡がれたものではないことが分かった。
とても穏やかな声だった。

 「でしょ」

竹井は単純に福路の心を嬉しいと思う。
悪待ち・身に染みて、このキーワードが出た以上は互いに言葉の裏で過ぎるシーンは同じであった筈だ。竹井は優勝した高校の部長で、福路は敗戦した高校のキャプテンであるから、これもまたシンプルな図式として、二人は苦みがあっても許される間柄にいた。
思いを懸けていたのはどちらも団体戦。清澄はどの高校からもノーマークの状態で優勝した分、昨年を既に騒がせていた龍門渕高校よりも衝撃値は高かったとみても自惚れにはならない。取り分け、竹井は団体の中堅戦で風越を削り切り、清澄優勝への大きな礎を築いた人物だ。大将戦の華に比べれば取り上げられる機会は軽微であったものの、この成績は広く評価されている。
竹井は自分がそうであっただけ、夏の特別さは理解の内に刻んでいる。
ましてや三年である自分達には「最後の夏」。
無ければ良い。だが、決着の後には高校間で不和が生まれてしまうケースも可能性の一つとしては考えていたのだ。こうなってしまったらどちらも悪くはないだけに修復は難しく、勝った側は受け入れることしか出来ない。少し寂しさを伴う、それが礼儀だと。
竹井には望まれれば自分が礼儀を演じれる自負があった。
しかしどうしたって虚しさを残してしまうだろう。あの会場に集っていた選手は、皆々が麻雀を好きな人達ばかりだと知っているだけ複雑に。
だから竹井は、礼儀を必要としない福路の穏やかな声が、素直に嬉しい。

 「でも残念。福路さんとはゆっくり話をしてみたかったんだけど」

立てた人差し指を揺らしながら言うと、福路の右目がパチリと開かれた。
あ、と竹井が思う。

 「個人戦の話とか」

実は竹井は今日のような偶然がなくとも、一度彼女とは相応の時間を取って言葉を交わしてみたいと感じていた。
「個人」という枠に団体程の魅力を見出せなかった竹井久を熱くさせたのは、福路美穂子との対戦がきっかけだ。それまでの試合間に手を抜くような事はしていないのだが、憧憬であった団体戦出場、そして優勝を果たした後 ─── あの決勝の時と同じ深さの志は、この胸に宿ってはいなかった。
十割が彼女のお陰だとは思っていない。
他の雀士も錚々(そうそう)たる力量を持っていた。本気を出し尽くしても勝てなかった相手もいた。
けれど、決定打を放ったのは紛れもなく彼女だ。
こちらを半強制的に痺れせた鋭利な読みの攻防には喜びを持った程。
清澄メンバーでも計り切れていない自分の闘牌に勘以上の対抗を打ち出せる人はそういなくて、極め付けには当たり牌の停止、そして止めるだけは飽き足らず、向こうも和了を目指して確たる手を組み上げていた。
これで燃えない方が無理な話。
彼女が与えた刺激は、初めこそ興味がなかった個人戦を、最終的には楽しかったという場所に行き着かせた。
嫌でも好奇心が冴える。
福路美穂子という打ち手がどのような人なのか。

 「昔の話とかね」

竹井が福路の右目を見る。
個人戦の内容に加味して、彼女との対局中に三年前の記憶が引き起こされたことも、言葉を交わしてみたい理由だった。
忘却していた三年前の記憶はひとたび甦れば色彩豊かたで、彼女との対局がいかに熱戦だったかを思い出せていた。さすがに詳細までとはいかないが、曇りのない牌運び、途中で開かれた綺麗な色の瞳は普通ならば忘れられない位置にいて然るべきで、もし出会ったタイミングが違っていたならば忘れるなんて愚考はなかった。間違いなく、そう思う。
言い訳をするのなら。
あの時は自分も、自分を取り巻く環境も、紆余曲折としていて何もかもが乱雑になっていた。
当時はそれに埋め尽くされていたような気がする。好きな麻雀も入り込めなかった。
曖昧になった部分は恐らくそれの影響なのだ。
後になって上手く整理を付けたつもりでも、所詮は ”つもり” 。
何処かで生じていた歪みには、誰かが口火を切ってくれなければ気が付けない。

 「私も…竹井さんと話がしたいと思っていました。ずっと」

福路が答えた。
竹井は目尻を下げて「そっか」とはにかむ。

 「本当は対局した時に伝えたかったんです。でも言葉が出てこなくて」
 「遠慮しなくて良かったのに。結局は私達、同じことを考えていたみたいだし」
 「………あの、それなら」

控えめで、照れが混じったそんな声だった。

 「竹井さんが宜しければ、雨宿りは私の家でしませんか」


















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