全国大会個人戦前夜



福路美穂子はプリントアウトされた牌譜をホテルの一室で見ていた。
その牌譜には風越部員達の親しんだ名前は無く、見知らぬ選手達ばかりの、もしくは、顔や名前のみぞ知るといった遠いものばかりだ。正確に表すのなら、個人戦全国大会で戦う相手の激甚たる記録。
それに対してもう何度、感嘆の息を漏らしたことだろうか。
決戦の地である東京へ一人現地入りし、いよいよ明日に迫った全国大会を前にしても福路は未だその牌譜を読み解けずにいた。
最低でも強く、そして巧い。属に言う「魔物」でさえ、この場所では当たり前のように姿を見せている。
レベルの向上が年々著しい全国大会は今年も例に漏れず熾烈を極めているようだった。
一部のプロの間では近年稀に見る豊作の年だと噂され、また同じく一部の雑誌記者達もそのようにして今大会を彩らせていた。

福路は天井を見上げた。手の中に薄っすらとした汗を滲ませながら、個人の予選を振り返る。
個人戦には姿を見せなかった天江衣、出場はしていても巡り合わせがなかった宮永咲。
いずれにしても、福路は魔物を感じさせる者とは戦わないままで一位の席を得た。
それは単なる組み合わせの問題で、特に恥じ入る理由はないが、もし対戦していたならば何処まで戦えていたのだろうと福路は考える。
あのヒリヒリとした心地良い緑の上で魔物に向き合う自分。分析や推察に長けているつもりはあっても、牌に愛されし支配と豪運を前にしてそれらは武器に成り得たのだろうか。
福路は自分の麻雀に誇りを持っていた。自身が強いのか弱いのかはあまりよく分からないが、今まで接してきた勝利も敗北も、同慶も涙も、全て含めて麻雀が好きだという心で積み重ねてきた力だ。
麻雀は一人では出来ない競技であるからここまで来るには沢山の人達の支えも必須で、そんな環境に身を置けた自分のことを福路は果報者だとさえ思う。
だから、福路は自分が打つ麻雀にささやかな矜持こそ持ってはいても、誇りを過信と見誤りたくはなかった。優勝という形で県全国代表の三枠に入っていても、他の雀士達よりも特別優れているとは思わないし、それに───
福路はいつの間にか開いていた両目で、己の牌譜と明日戦う予定である強者達とのそれを見比べた。
ほとんど暗記してしまった内容なのに、変わらず読み解けなくて苦笑い。
理屈では説明が付きそうにもない役満の連続に対抗する術を再考してみるも、少し頭に痛かった。

福路は牌譜を持ったまま部屋隅にあるベッドへ体を移した。
柔らかな感触に全体重を預けて仰向けに横になる。
幾らか遠くを見ていたのは無意識だった。

 「私は」

福路は呟いていた。
「全国大会」は麻雀に専心してきた高校生活の集大成としてこの上ない程の輝かしいステージだ。
県より勝ち抜いてきた強者のみで競われる明日がどれだけ苛烈なものになるのか想像もつかないが、望めば望むだけの白熱と合間見える事が出来るだろう。

 「……っ」

福路の身体がふるりと震えた。
両手を交差させて固めてみるも完全には止まらず、福路はそんな自分を情けないと恥じる。
この律動が、武者震いのような勇ましい類のものではないことは本人が一番よく理解していた。
いやに早まった鼓動の音だけが耳で反響している。戦意が浮いていて、モノになっていない。
絢爛たる明日を前にしておいて何故、と福路は思う。
軋みを上げているものは、知っている限りの言葉で表わすのなら「不安」。
年来のOG戦、または他県交流戦でも格上と打つ機会は数多で、これまでの福路はその切迫でさえも闘志に転化して戦うことが出来ていた。迫る暗がりも味方にしようという天性の気質に後押しされ、何事も楽しんできた福路だからこそ身に付いた無自覚の技術だった。
その想いが福路の和了を引き寄せる原動力となり、強さになり、乱れ無き必勝を見据えさせていた。

しかし、今日はどうだろう。
勝利の輪郭を仮定でさえ描けてない。
風越のキャプテンとして、個人の福路美穂子として、重ね続けてきた志を盾にそれでもと奮い立たせてみるけれど。
福路はポツリと零した。「だけど私は、私の実力は魔物には程遠い」
牌譜を比べれば見えてしまいそうな結果に、そんな事実が降り積もっては飽和する。
何かが足りないような気がしていた。




福路の思索を止めたのは部屋に甲高く鳴り響いたコール音だった。
据置きされている電話からの呼び出しに応じる為、受話器に手を掛けた福路。
無駄なくらいに慎重な動作で受話器を持ち上げたのは、彼女に生来から備わっている機械との相性の悪さが起因していたが、今回は幸いなのか当然なのか、何も問題は起こらなかった。
相手からの電波をクリーンに受け取れているようだ。

 「もしもし」

フロントからの内線かと思っていた福路は、元気良く 『キャプテン!』 と呼ばれて目を丸くした。
乱脈の長考にあったものが、零秒で朗らかへと変じる。
突然で驚くも、福路がこの明るさを聞き違える筈もなかった。

 「華菜」
 『こんばんは、キャプテン。今、電話してても大丈夫ですか?』
 「ん、大丈夫よ。でも驚いたわ」
 『ホテルの人に電話繋いで貰ったんですよ〜。かなり丁寧な対応されて、何か緊張しました』

不得手にやり取りをする後輩の姿が浮かび上がった福路はクスと笑う。
チェックイン時も手厚い接客だった事を福路が話すと、池田はやっぱり!と嬉しそうに言った。
次に福路は幾分申し訳なさそうな声で自分が携帯電話を持っていないことを詫びる。
携帯なんて別に無理して持つ物でもありませんよ、どうして謝るんですか、と純良に訊く池田。
福路曰く、連絡を取る時にはいつも今日の様な手間を掛けさせてしまうから。
池田は福路が機械を苦手としているのを知っていたし、手間だとは全く思っていなかったので、そのように答えた。

 『手間どころか、今日の電話なんて誰がキャプテンに掛けるかで争ったくらいです』
 「え…」
 『いえ、明日の本番には勿論、絶対、必ず!応援には行かせて頂きますが、あたし達は始発で出発しても朝一からのキャプテンの試合には開始時刻ギリギリにしか到着出来ません。だから出場選手のキャプテンは先に現地入りされている訳で……。それで、もしかしたら明日のあたし達は試合前のキャプテンに応援の一言も届けられないのではないかという話になりました』
 「それでわざわざ電話をくれたの?」
 『はい。さすがに部員全員で掛けたりしたら迷惑ですし、誰か代表をという流れに…。でも誰も譲ろうとしなかったので』
 「うん?」
 『久保コーチの許可を得て、急遽 ”キャプテンに電話権" を懸けたトーナメント戦が開催されたんです』
 「えっ」
 『大変でした。校内ランキング下位だったはずのメンバーも何故か急に強くなるし』
 「そんな…。とても嬉しいことだけど、少し大袈裟じゃないかしら」

福路は予想外の方角へ向いた話にくすぐったさを覚える。
まず久保コーチがそのような変則的な試合を許すことが希有であったし、伝えられた台詞も一から十までが春風駘蕩とし過ぎていた。

 『大袈裟だったらいっそ良かったんですけど。あの試合、盛り上がるという意味ではランキング戦以上でした。少なくともレギュラーは全員10翻以上の役をアガっていますし、決勝は一位から三位の差が5000点以内です』
 「凄いわ。それは私も一緒に打ちたかったかも」
 『キャ、キャプテンが同卓だったらアガれてませんよ』
 「そうかしら?華菜と文堂さんは牌の引きが強いし、吉留さんと深堀さんは場に対する視野が広いでしょう。きっと出来るわ」

福路は話しながら、ふと一つのことに気が付いた。

 「あら。でも、こうやって華菜が電話をくれているということは……華菜が優勝?」
 『そうです、あたしが優勝です!!ちょっとみはるんに振り込んじゃいましたけど、一発ツモの8000オールで巻き返しました』
 「おめでとう。華菜は高い役でアガる事が多いから、最後の一局まで油断は出来ないもの」
 『ありがとう御座います。キャプテン応援の代表ですから負ける訳にはいかなかったんです!』
 「もう。華菜ったら」

後輩の弾んだ声は受話器越しでもよく通り、福路はますます面映くて困った。
そんな福路の心境を知る由もない池田は、ありふれた感じのことしか言えませんがと照れくさそうに前置きしてから言葉を繋げる。

 『明日頑張って下さい!キャプテン!』

弾み口調にも織り込まれた真剣な気配を福路はしかと受け取った。
うん、皆の分まで頑張るからね、と返す為に口を開く。

 「…ぁ」

しかしその時、失念しかけていた不安が共鳴に軋みを働かせた。
喉で止まった台詞はただの音と成り果てて消える。
力を尽くすということに違いはなくとも、向けられた言葉が幸甚に富んでいたから、たとえ少しの曇りでも躊躇われた。
この束の間を、福路は駄目と悔いる。
後輩までコレに引き摺り込む訳にはいかない。背景にある不安を悟られる訳には。
池田華菜はその突き抜けた明るさのせいで周りに厚顔な印象を与えがちであるが、実は他人の心の機微にはずっと敏感だ。気取らず、不器用に行動してしまうから分かり難いだけで。
福路は池田のそんな一面を了知して触れてきた数少ない内の一人だった。
なにせ、福路は池田が風越麻雀部に入部してきた当初からいつも一緒だったのだ。
彼女がどうしてあんなにも慕ってくれたのか、福路には見通しが付かないことではあるが、徐々に縮まりゆく距離は信頼と成る。後輩であり、チームメイトであり、大切で、それ故に無用な心配を掛けたくないという表裏一体の心が動く。
福路はもう気付かれているかも知れないと思いながらも、急ぎ継ぎ当てるようにして言った。
うん、皆の分まで頑張るからね。

 『キャプテン?』

一寸含まれた福路の迷い加減に池田が素早い反応を見せる。
声色には把握し切れないまでも遠からずの窺知が感じられた。
福路は受話器を強く握り締める。
案の定、あの束の間で気付かれてしまったのだと。

 『どうしました?何かありました!?』

堪らず胸を押さえた福路。
淡い哀調を帯びた後輩の様子が耳に届いて、言葉を選んでいる余裕が無くなってしまう。

 「…ねえ、華菜」
 『はい!』
 「私」

勝てるかな。

 「……ううん、ごめんね。何でも…ないから」

やはり言えない。
福路はあと一息のところで強引に留まった。
こんな相談にもならない不安を告げても、大切な後輩を戸惑わせるだけ。
弱さの露呈を福路は悪いと思ったことはない。だが、わざわざ応援の一報をくれている後輩に対して、キャプテンである自分がするべき事ではないとも考える。

 『…そうですか』

今ひとつ腑に落ちないトーンを含みつつ池田が首肯を示した。
宙に浮いた台詞に何も論じずにいてくれた ”明らかな” 後輩の心配りに、福路はチクと痛むものを感じながら、複雑な心境で胸を撫で下ろす。

 『キャプテン』
 「?」

今の福路は苦しい安堵に身を奪われていて、全く油断していたから、次に続く池田の声を必要以上にダイレクトに聞く事となる。
池田華菜がこのまま黙しただけで終わる訳もない、そんな簡単な定理を福路は欠いていたのだ。

 『全国大会、楽しんで下さいね』

楽しむ。
後輩の言葉を心で繰り返した福路の中で時間が止まる程の大きな波紋が起こされた。
呼吸を忘れた代わりに思い出す、とっておきの心一つ。

 『あたし自身がキャプテンから教わったことなので偉そうに言える立場ではありませんが、何があっても楽しんでヘコまないでいて下さい。もしかしたらキャプテンでもそれが難しい時もあるかも知れませんけど……でもどんな状況でも、もし神がいてくれるのなら前に向かう者を好きでいてくれる筈です。だからキャプテンはいつものように麻雀を楽しんで下さい。キャプテンが楽しんで帰ってきてくれさえすれば、あたし達はそれで嬉しいです。及ばずながら応援は精一杯させて頂きますし!』

滑らかに廻り始めた歯車は加速するばかりで、福路は普段の感覚を刻々と取り戻す。
楽しむ流れ。溶け込む静謐な闘志。
勝てる勝てないという不安以前に、失くしてはいけなかった本義が目覚めていく。

 『それでは改めて。ありふれた感じのことしか言えませんが ─── 明日頑張って下さい!キャプテン!』




福路は通話切れの音を確認してから、なんて自分は単純なのだろうと吐息で笑んだ。
自分から教わったと、ありふれていると言った後輩の言葉を反芻すれば、あれだけ根付いていた不安も取り払われてしまった。
牌譜に並ぶ実力差が埋まった訳でもないのに、描け始めた勝利の輪郭に力が湧いてくる。
仮に敵わなかったとしても、この心で臨めるのならば憂いを残す事はない。

 「……華菜」

福路は数秒前まで繋がっていた後輩を想う。
今まで一度も感じたことのなかった試合前夜の不安、楽しみの喪失。
そもそもの引き金は。

 「……、」

表情を綻ばせた福路が呆れ返る。
そうか、考えてみれば、隣にも後ろにも華菜が居ないという日が久しぶり。
どれだけそれに甘えていたのだろう。
会えば当然のように傍に居てくれて、卓につくとなれば無条件にこちらを勇気付けてくれていたから、不安なんてもの、覚える余地がなかった。

 「頑張るからね」

数多くの後輩達を分け隔てなく愛してきた福路だが、そう、背中を預けてきたのは唯一人。
何かが足りないような気がしていた、それはきっと───



















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