あまり触れて欲しくない事なのだろうな、と思う。
一人部室に残った池田華菜は手持ち無沙に牌を弄りながら、福路美穂子の事を考えていた。
部誌を提出しに行った福路が戻ってくるまでの猶予はおおよそ数十分。

 「でも、なぁ…」

指で遊んでいた牌を握り込んだ池田は我知らず嘆息を漏らした。



選択肢 「大好き」



池田の記憶の中の福路はいつも右目を閉じていた。
入部当初は同じ一年の間でも幾度となく話題として上がっていたものだが、それはやがてやってきた他校との練習試合の時に払拭される事となる。

公式の団体戦を模したその練習試合に大将として参加していた池田は副将を務める福路の試合を見ていた。
いつもの風越女子ならば副将へ回る前のメンバーが相手をトバして終了させているか、もしくはバトンを渡した段階で覆しがたい点差がついているものであるが、今日は珍しく先鋒・次鋒・中堅の誰もが実力を発揮出来ないままであった。調子が悪いだけならばまだ救いもあったが、最悪なのはスコアがあわやマイナスを示そうとしている現実だ。
まさかの敗北の二文字が空気に潜む中、先程試合を終えた中堅の先輩に向かってコーチの怒声が飛ぶ。名門を携える風越は常勝が義務で、それが例え練習試合であっても敗北は許されない。ましてやベストメンバーで負ける事などあってはならないのだ。
池田は背筋に嫌な汗を感じながら、つくづく麻雀は難しい競技だと思う。
どれだけ腕を磨いていたとしても、ただ一時の運の悪戯に振り回され、条件さえ味方すれば初心者がプロに勝ってしまう事も珍しくはない。
運も実力の内、そう、だから麻雀は楽しい競技でもあるのだけれど、故に確実に勝てる人間なんて存在し得ないし、この理不尽な道理には例外もない。
加えて今の低スコアを考えれば、攻撃の幅も限られてくる。
たとえ脅威の勝率を誇る福路美穂子であっても、風向きを変える事が出来なければそのまま呑まれてしまうだろう。

しかし、池田は僅か数局の間にこの心配が杞憂だったことを知った。
思わず呼吸を止めて対局を見詰める。
それは運なのか実力なのか、はたまた両方を兼ね備えてしまったのか───
ロン、という福路の声が止まらない。厚く高い手が見事な速さで出来上がっていく。
何度連荘したのだろうと考え出した頃には、対戦相手の顔が寒く冷えたものになっていた。
池田は戦慄を覚える。
鳥肌が立ち、抜けた声で呟いたのは、たった一言だった。

 『凄い』

何がと聞かれれば「全て」と即答する自信があった。
手牌が進まない時にも福路は隙を見せない。危険牌を既知しているのだろうかと錯覚させるレベルを持って振り込まず、捨て牌さえも利用して他家を支援、威風堂々と一位を削る。
始終ペースを乱され続ける展開に他校の副将は苛立ちを隠せない。
また一つ福路が和了すれば、何処からか舌を打つ音が聞こえた。
池田は慌ててスコア表示を見る。同時に、風越女子からは歓呼が上がっていた。
風越のスコアは劣勢だった状態がまるで無かったような高得点を示し、大将戦でまくるには充分な得点差まで息を吹き返していたのだ。
表立って喜びを見せないコーチも一先ずは安堵しているよう。
やっぱり福路先輩は凄い、と池田は改めて福路の強さに痺れ、今まで手牌にばかり向けていた視線を上げた。

すると、池田にとっては馴染みのない色がそこにあった。
日頃閉じられている筈の福路の右目が開かれている。
珍しい、とてもとても珍しい色違いの瞳。深い色。
福路に添えられていた新しい色に素直に驚いた池田は、そのまま少しだけ考えた。
少しだけ考えて、少しだけ迷った後、ゆっくりと確かな納得を胸に下ろした。
普段の生活において福路が青を伏せていた理由は、真の馬鹿でもない限り容易に想像出来る。
その右目は福路にとって隠していた方が良いもので、つまりはそういう事。

やや見入ってしまっていた池田は副将戦が終わっていた事に気付くのが遅れた。
卓から離れようと立ち上がった福路と不意打ちで視線が絡む。
どのような顔をしていたのかは自分では分からない。
しかし、福路は苦笑の後に寂しい速さを持って再びその右目を閉じたのだった。
池田の中に痛みに似た衝撃が走る。
違うのだと咄嗟に伝えようとするも、次に試合を控える池田はコーチに呼ばれ、その時間を取ることは叶わなかった。




そして、今に至る。
池田は試合が終わった後に真っ先に福路の姿を探したが、部員数が多いのも時には考えものだ。
大将戦を見事勝利で飾った池田を喜び勇んで囲む同級生達に、福路もまた別の麻雀部員や他学校のライバル達との話に華を咲かせていた。
さすがにその場に割って入る事は出来ず、輪から離れた後も率先して片付けに望む福路とは、ついぞ会話のチャンスに恵まれなかったのだ。
結局、一度も言葉を交わせないまま福路は書き終えた部誌を提出しに行ってしまった。
「お疲れ様でした」という言葉を合図に他学校の面子も風越の部員達も次々と帰宅していく中で、池田は適当な理由をつけて部室に一人残る選択を取る。
このままで帰る事など到底出来なかった。
池田は窓の外の茜を見ながら、あの時の刹那に垣間見た福路の儚げな表情を思い出す。
文字通りの異色は他人の好奇を呼んだに違いない。
例え全ての人がそうでなかったとしても、一握りの層が彼女の瞼に重みを背負わせた。
無意識なのか、福路は即座にいつもの笑顔に戻したが、その切り替えの早さも過去から培ったものだったとしたらあまりに苦しいではないか。

 「違うんです。違うんですよ、福路先輩…」

確かに初めて青い瞳を見た時には驚いた。珍しいとも思った。これは事実だ。
でも、本当に”それだけ”だったのだ。
あんな顔をさせるつもりなんてなかった。

 「でも、なぁ…」

指で遊んでいた牌を握り込んだ池田は我知らず嘆息を漏らした。
何と伝えて良いのか分からない。
人の深い部分に器用に潜り込む術は持ち合わせていない。
元来、気持ちを上手く回せるタイプではないのだと自覚しているだけに厄介だった。
焦って伝えて、気を遣っていると思われたら終わりだ。
これはそんなものじゃない。

 「”でも”、どうしたの?池田さん」
 「いえ。福路先輩にですね…」
 「私?」
 「はい。すっっごく大好きな先輩なんですけど」
 「えっと…あ、ありがとう」
 「目の事とかで、そんな……って、ふ、ふふふふ福路先輩!?!?」

池田は今年一番の大声を出して仰天に後ずさった。

 「そそそ、その!今のはっ」

いつの間にやら、部誌の提出を終えたと思われる福路が直ぐ傍、至近の距離に立っていた。
池田は心底自分の間の悪さを恨み、頭を抱える。
肝心な時に限って、どうしていつもこうなるのか。
組み立てようとしていた心の準備も完成しないまま、且つ、言葉さえも曖昧なままで福路に切り出してしまった。

 「この目ね、生まれつきなの」

あたふたとする後輩の気持ちを汲む福路は優しく微笑みながら右目を押さえた。

 「特に不自由はないんだけど、やっぱり少し珍しいから」

気を悪くした風もなく、予想以上にはっきりとした福路の声に池田は微か息を呑んだ。
悲しみは見えない。福路にとってはこの説明さえも何度も繰り返してきた事なのだ。
辛かった日もあったかも知れないけれど、恐らくはもう受け入れ切れている。
それも曲がることなく、ちゃんとした意味での受け入れで。
池田は思い出した。ああ、そう言えば福路先輩の口癖は「明るく前を向いて」「何事も楽しみたい」だったな、なんて。
しかし。

 「福路先輩」

しかし、覆われていない左目は寂し気に揺れている。
もしかしたら本人でさえも、否、本人だからこそ気が付けていないのかも知れない。
そう考えると、憤りに似た歯痒さが池田を撫ぜた。
その正体は分からないけれど、迸る何かが熱く煽る。
この胸を早く届けろ。違うのだと伝えなければ。

 「あたし、あまり考えたりするの得意じゃありません。気の利いた言葉とかも苦手です。だから、ただ思ったことを正直に言います」

直進型の自分が変な上手さを求めた所で逆効果だった。
開き直った方がいっそ自分らしいのではないか。
手中にあった牌をもう一度強く握り込んでから卓に置いた池田は、続けて福路の右目を遮っていた腕を柔とした仕草で奪った。

 「池田さん…?」
 「試合で初めて福路先輩の目を見た時、驚きました。凄く珍しいとも思いますし」

一呼吸の度に福路の揺れが深まる。
それを肌で悟る池田はグと身体の芯に力を入れて耐えた。
ここを嘘で飾ることに意味はない。一つでも隠せば、後の言葉さえも巻き込んで影を持ってしまう。
池田は大きく息を吸った。

 「でも、思ったのそれだけでした。もっと言えばそんなの全然関係ない。何か変わった事があったとすれば、その色も…すす好、き、になった事くらいでした。それに…その…不謹慎かも知れませんが、あたしとしては少し福路先輩の事を知れて嬉しいというか…」
 「………」
 「これだけはどうしても今日中に言いたく───?」

突如、手の甲に水を感じた池田は視界を下げた。
それを何かと理解した瞬間、慌てて福路の腕を開放する。

 「ふ、福路先輩!?泣かないで下さい!!生意気言ってスミマセンでした!!」

土下座でもしそうな勢いで動揺を見せる池田の肩に福路の顔が寄せられた。
肩口に乗るふわりとしたささやかな重みに池田の心臓が跳ねる。

 「ううん。この目ね、今まで良いことも、悪いことも……沢山言われてきたけど」

だが、騒がしくなった心の臓とは裏腹に、池田は妙に安心しながら福路の言葉を聞いていた。
近くにある色違いの瞳からはもう揺れは感じ取れない。

 「好きだなんて言われたことはなかったから。そう考えたら急に涙が出てきて……ごめんね」
 「い、いえ!!悪いのあたしだし!!」

池田は謝罪しながらも福路の晴れとした欠片を見て嬉しさに目を細める。
もう二度とこの人が寂しい色に揺れなければ良いと思うけれど、それはさすがに無理だろうか。
人間なんて十人十色で、誰にだって苦手な人はいるし、どうしても合わない人もいる。
風越麻雀部員でさえも全員が全員、福路を好いている訳ではないのだから。
池田は頷いた。
うん、でもそんなものはどうしようもない話だ。
周りが何を言ったとしても、あたしは福路先輩のことが好きで、それで良いんだろうな。

 「あ」

突然、校内にチャイムが鳴り響いた。
咄嗟に時計を確認してみれば、最終下校時刻五分前。
教師達による校内見回りが始められるまでのカウントダウンが始まったのだ。

 「福路先輩、下校時刻が過ぎた後にコーチに見つかったらヤバイです!急いで帰りましょう!一緒に!!」

どさくさに紛れて渾身の勇気を出した池田は福路と手を繋げて走り出した。
照れ隠しも相まって、池田は後ろを振り返れない。夢中で校門目指して福路の一歩前を走り続けた。




だから、池田は見逃してしまっていた。
知ることも出来なかった。
その時の福路がどこまでも明るく幸せな笑顔を浮べていたことを。
そしてそれが、誰によって齎された最高の笑顔なのかを。



















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