伝統の風



県予選決勝が終わったその日の夜、池田華菜はただ空を眺めていた。
宿泊先を一歩抜け出したこの外にあるのは、夜と朝の境目だけにある独特の涼やかさだ。
しばし微動だにしなかった池田であるが、流れる星に何を見たのか、酷く緩慢な動作で空に手を差し出した。
薄く煌く星に向かって、どれだけ懸命に手を伸ばしてみても当然ながら届かない。
二度、三度、そんな無駄な動作を繰り返した池田は視線を大地に落としてから苦く苦く笑う。
届きそうなのに届かなかった星の輝きは、さながら「全国の切符」のようだった。
「力一杯戦ったんだ、悔いはない」 たまにそんな言葉を聞いたりするけれど、”本当に”心からそう思える人はこの世に何人いるのだろう。
爽快な笑顔は勝者にのみ許される勲章で、敗者はどう繕ったところでそのようには笑えない。
もしも、なんて考え方が馬鹿げている事くらい分かっているつもりだ。
けれど考えてしまう。もしもあの時に違う牌を切っていれば、もしも別の攻め方を選んでいれば、今のこの未来は違っていただろうか。
もしも、「大将」があたしでなければ、風越はあの星を掴めていただろうか。
ほら悔いばかりじゃないか。
楽しい試合が出来ても、力を出し切っても、勝てなければ先がない。

 「華菜」

不意に背後から聞こえたのは耳に慣れた心地の良い音だった。
池田は反射的に涙を押し戻す努力を試みるが、しかしそれは失敗に終わる。
今、一番聞きたくない声であり、また一番聞きたいとも思っていた声は、残酷なまでに心に染み渡って胸を熱くさせた。
振り向けばそこにいるのは福路美穂子という風越の誰よりも今日の試合に勝ちたかった人だ。
そして池田が尊敬し、憧れ、ただ純粋に好きだと思う人だった。

 「消灯時間後に部屋を抜け出したりしたら駄目じゃない」
 「…はい」
 「でも私もここにいるんだから、同じかしら」

池田は福路が横に並ぶ位置に立っても、顔を上げる事が出来ないでいた。
それどころか、より一層の悔しさに身体を責め立てられてろくに二の句も紡げない。
息が詰まる程、ただ、悔しかった。
夏の敗退は一つの時代の終わりを意味している。
それは即ち、もうこの人と風越女子として試合に出る機会を永遠に失ったという事だ。
二度と会えなくなる訳でも、麻雀が打てなくなる訳でもないと理解しながらも、どうしても悲しかった。
インターハイという特別な夏を福路美穂子と共に歩く、これは池田が風越に入学した時からの夢でもあったからだ。
決して大袈裟ではない。
出会いは高校からで学年も違った二人、一緒に居られた時間は嘘でも多くはなかったが、池田にとってそんなものは壁にならなかった。
何か、そう。凌駕する思いを抱えていたのだと思う。
一年の時、福路美穂子という人の鮮やかな強さを見せられた時から。




特待生として迎え入れられ、上級生やレギュラー陣の地位さえも脅かす実力を見せていた池田の快進撃を唯一止めたのが当時二年の福路であった。
的確な判断と読み・攻め際と引き際・ここぞという時の強牌。
あまりにバランスの取れた綺麗な打ち筋は攻撃だけに特化した池田の麻雀を完膚なきまでに退け、気が付けばオーラスを許されることなくトバされるという結末。
卓の周囲から見ていた部員達のざわめきが部室全体に伝播していく中で、ガタンと椅子を鳴らした池田は驚愕に立ち上がった。
強い、怖いくらいに。牌運はこちらへ味方していた筈なのに、それでも勝てなかった。
こんな事は今まで一度もなかった、と半ば呆然とする池田の耳がやけにクリアに他部員達の言葉を端の意識で拾う。
先程の試合はどうやら、所謂えげつない部類に入る試合だったらしい。
必要以上に池田華菜のみを狙った場運びで、実力差があったのならば尚更入ったばかりの後輩にあそこまでしなくても良かったのではないかと言う人もいた程だった。
また逆に、良くやったと上級生の強さを知らしめた福路を称える者もいる。反応はそれぞれのようだ。
池田が福路に何か言おうと口を開いたまさにその時、「福路先輩、いくら強いからって見せ付けなくても良いよね」と同学年の誰かが言った。
見せ付けられた?
その言葉に疑問が過った池田は黙って空気を飲み込んだ。噛んだ下唇が白く色を変える。
見せ付けられた、いや、その割にはあの対局は何かが可笑しかった。
完全な敗北は痛恨で堪らない。だが、そんな徹底的に潰された中でも、池田はどうしてか負けた事よりも更に納得のいかない部分があるような気がしてならなかった。
牌譜を見せて貰った事は幾度もあるが、今まであの先輩は百を越える試合の中でも個人を集中的に狙った打ち方はしていないし、どちらかと言えば誰かを無理にトバそうと考えるよりも、着実に点を積み重ねていく打ち手だ。
周りは気が付いていないかも知れないが、直接戦ったからこそ分かる。綺麗な打ち筋の中にはあの人らしくない無茶な打牌が隠れていた。強者であればこそ、己のスタイルを変えずとも余裕で勝てた筈だ。打ち筋を曲げてまで、トバしに掛かる理由が分からない。
掴み難い意図的な不自然。敢えてこんな風に打ったとしか思えなかった。
突出しようとする一年を嫌ったのだろうか?まあそれならばよくある話だけど。
池田は端目で福路を見た。
目が合えば、ニコリと全く嫌味の欠片もない笑顔を返されて拍子抜けしてしまう。

 『池田さん』
 『は、はい!』
 『池田さんは本当に麻雀が好きなのね』

絶対に負けたくないという気持ちが伝ったわ、という言葉に当然だと池田が頷けば、福路は先よりも丸い視線でまた微笑んだ。
卓上に散らばったままの牌を整列させた福路は、対面にいた池田を軽く手招きして呼び寄せた。
やや動揺を残したままの池田が福路の元へ並ぶ。

 『そんなに緊張しないで。 ね?』

卓を指差しながら言う福路に対し、池田は何が始まるのかと思っていたが、何ということはない、先程の対局に関するアドバイスの言葉だった。
高い打点を狙う時とそうでない時の牌の切り方、捨て牌からの予測の多種多様。
福路に対して警戒心を働かせていた池田であったが、複数のアドバイスを聞いていくにつれて、いつしかその多彩な見解に惹き込まれていった。
おおよそ自身では及びつかない角度からの考え方はとても魅力的で斬新だ。何より、まるで自分の事のように真剣に語る福路の様が印象に残った。
こちらから時折投げられる質問にも明るく答え続ける福路。その柔和な横顔を見ながら、なんて幸せそうに牌に触れる人なんだろうと池田は不思議な感心を覚える。
そして、今の感心を認めた途端に、池田はハッとした。
急に視界が開け、霞掛かっていた真実に触れたかのように思えた。
福路という先輩は、決して自分の事を嫌ったからあのような打ち方をした訳ではないのだ。
こんなにも優しく牌に触れる人が、こんなにも麻雀への愛を滲ませている人が、そんな小さな人間である筈がないだろう。
池田は確信を得て福路の顔をまじまじと見詰める。
あの対局にあった不自然さにようやく気が付けた瞬間だった。

 『福路先輩』
 『なあに?』
 『さっきの対局。もしかして…』

ここで降りた福路の笑顔を見、池田は辿り付いた真実が間違いでなかった事を知る。
間違いない。この目の前にいる先輩は、わざとあのような狙い打ちをして見せることで、天狗になりつつある後輩の鼻を折ってみせた。勝てば勝つ程に調子に乗る悪い癖を見抜き、このままでは駄目だと教えてくれた。

 『貴女はもっともっと強くなれるわ。一緒に頑張りましょう』

これが中学と高校のレベルの差。名門校の洗礼。
しかし、それは同時に鮮麗としても池田の心に刻まれる事となった。




例の試合を皮切りに、池田は福路の背を追い続けた。
もっともっと強くなりたいと、肩を並べたいと思う一心で打ち続け、学び、遂には一年レギュラーを獲得していた。
福路がキャプテンになった後は、誰にもNo,2の座を譲らなかった。
どの公式戦においてもチームが不調の時は最後を持つあたしが取り戻すのだ、勝っていれば更に突き放し、接戦ならば競り勝ってみせよう。
図々しいと言われるのならばそれも良い。慣れている。
勝って福路先輩に、キャプテンに笑っていて欲しい。
麻雀を愛し、風越を愛するこの人と全国へ行って少しでも長く共に在りたい。
そして、全国常連校に名を連ねる風越女子の目標は「全国制覇」の栄光だ。

その筈だった。
去年も今年も、チームの結束に澱みはなかった。
去年も今年も、練磨された最高のチームだった。
どんな敵が現われても、負ける気なんてしなかった。
それなのに。
去年も今年も、終わらせたのは。

 「あの…キャプテン…」

池田は全身に力を込めながら声が震えないように願っていた。
今日泣くべきはあたしじゃないと、頭で何度も繰り返していた。
だが既に意地では受け止め切れない量の涙が溢れ、頬に幾度の筋を作り始める。
負けた直後にあれだけ泣いたというのに、この感情は底を知ってはくれない。

 「あたしのせいでっ…キャプテンの最後の、夏…」

続きの台詞は嗚咽に呑まれ言葉にならなかった。
押し留められた言葉の代わりに応えるかの如く、涙だけが溢れ続ける。
行きたかった。最高のチームメイトと一緒に、キャプテンと一緒に全国に行きたかった。
結局あたしは一度もこの人と全国へ行けなかった。

 「あら。どうして華菜のせいになっているの?」

少し高い位置から池田の頭を撫でた福路は心底不思議そうに言った。
取り出したハンカチで池田の目元を拭う。

 「私のせいじゃないかしら」
 「な、んで」

池田は必死に嗚咽を制する。
決して他人を責めない人だとは知っていても、それでも譲れなかった。

 「キャプテンは悪くなんかないです。去年だって今年だって、どう考えてもあたしのせいですっ。いくらキャプテンが優しくても…あたしを責めてくれたって構わないんです。言って下さい。寧ろ、それでも足りないくらいだし!!」
 「華菜」

福路は池田と真っ直ぐに目線を合わせてから続けた。

 「えっとほら、私はキャプテンでしょう」
 「へ…?」
 「確か、前にも言った事があるかも知れないわね。チームのミスは私の責任よ。もし敗退理由に誰かを悪いと位置付けるとしたら、それはやっぱり私」
 「でも!」
 「もし華菜がそうじゃないと言うのなら、誰にも責任なんて無いことになると思うの」

ほんの少し、麻雀をしている時の空気が流れたような気がした。
優しさの中にも芯を通した強さ秘める、キャプテン福路美穂子のそれだ。

 「そんなこと───」

尚も反論を伝えようとする池田の唇に福路の人差し指が柔らかく乗せられた。
池田はそれだけで動きの全てを縫い止められる。開かれた右目の青が暖かかった。

 「私が華菜に言いたい事はね」

緩やかな風が吹いて、張り詰めた空気が攫われる。
一呼吸置いた福路は浅く頷いてから僅かに頬を朱に染めた。
池田もつられて頬に赤を宿す。

 「ありがとう」
 「え…」
 「どの試合でも華菜が後ろにいてくれたから、私はいつも安心して自分の麻雀を打つ事が出来たわ。去年は私が副将で華菜が大将。今年は私が先鋒だったでしょう」
 「でも!結局あたしは今年も勝てなくて…!皆の夢を」

福路が首を横に振った。

 「オーダーを決める時、コーチと何度も夜遅くまで話し合ったの。けどね、大将だけは直ぐに決まった。コーチと私は同じ意見だったの。去年の事もあって、華菜には大将が重荷になることも考えたけど……それでもやっぱり最後に華菜がいてくれればレギュラーの皆も安心出来る。勿論、私もね」
 「キャプテン…」
 「だからね、華菜には胸を張っていて欲しいの。結果は確かに負けてしまったけれど、華菜は絶対に最後まで諦めなかった。私は同じチームメイトとして華菜と麻雀が出来た事を誇りに思っているわ。とっても楽しかった」
 「…っ」

池田の涙の質が変わった。
ただ悲しいだけのそれで構成されていたものは、様々な感情が入り混じったものとなる。
この期待に応えられなかった。だけど、福路の信頼が、言葉が、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、そして少しだけ切なくて。

 「でもね」

泣き続ける後輩をそっと抱き締め、福路もまた一筋のそれを零した。
彼女はまたきっと今日の敗退を夢に見、苦しみ続ける事になるだろう。自分自身を責めなくてもいいのだと伝えても心が決して納得しない。
辛い思いはして欲しくはない。けれど、恐らくはそれで良い。
池田華菜には備わっている。立ち向かうには充分な強さが。
彼女の麻雀に懸ける絶対値は、一年生の時から変わらず伸び続けているのだから。

 「その悔しいと思う心は忘れないで。今日の思いは、また貴女を強くするから」

池田は微弱に震えている福路の腕を感じて顔を上げた。
涙と反比例する暖かな微笑にかち合えば、滑り込むようにして全く別の激情が湧き上がった。

 「華菜?」

強く、なりたい。
今まで何度も願った事であるが、ここまで切実に自覚したのは初めてだった。
池田は静かに福路の胸から離れる。

 「忘れたくても忘れられません。でも、乗り越えるし!」

宣誓というには荒々しく、約束というには曖昧な言葉。しかし、それ故に至純の決意だった。
池田は福路の手を握る。
福路も池田の手を握り返した。

 「もっともっと強くなってキャプテンを安心させますっ」
 「ふふっ。私も華菜に負けないように頑張らなくちゃね」

その時、二人の頭上では星が流れる。
池田はもう一度空を見上げた。
手を差し出せば、星の輝きが近くなったような気がした。


















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